元NHKアナウンサーの鈴木健二さん死去 | 女装男子かなこのブログ

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「クイズ面白ゼミナール」の司会やベストセラー本「気くばりのすすめ」の著書で知られる元NHKアナウンサーの鈴木健二(すずき・けんじ)さんが3月29日、老衰のため死去しました。


95歳でした。


文字通り、テレビ放送とともに歩みを重ねた、昭和を代表するアナウンサーでした。


鈴木健二さんは1929年1月23日生まれ、東京都墨田区出身。


東京の下町に生まれた生粋の江戸っ子で、東北大学卒業後、テレビ放送開始の前年の1952年にNHKに入局しました。


報道ジャンルで活躍していたが、1966年に生活情報番組「こんにちは奥さん」の司会で主婦層の人気も得ると、1981年から「クイズ面白ゼミナール」の司会として活躍しました。


クイズ番組歴代最高の視聴率42.2%(1982年9月12日、ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録するなど人気番組となりました。


抜群の記憶力で台本やセリフを頭にたたき込む一方、当意即妙の受け答えをちりばめ、人気アナウンサーとしての地位を不動のものにしました。


1982年に執筆した「気くばりのすすめ」は文庫本を含めると400万部を超える大ベストセラーになるなど、アナウンサーとしての枠を超えて活動しました。


1983~85年に3年連続でNHK紅白歌合戦の司会を担当しました。


出演者よりも派手な衣装で登場するなど、注目を集めました。


1984年には、同年に引退宣言をしていた都はるみさんが大トリで「夫婦坂」を歌った後、会場からアンコールが巻き起こる中、「私に1分間だけ時間をください」と呼び掛けました。


その後、涙にくれてしゃがみ込んでいる都さんに「エネルギーが少しでも残っていたら歌ってください」と声をかけ、感動のアンコールシーンを演出しました。


「私に1分間だけ時間をください」は当時の流行語にもなりました。


その後、理事待遇となったため当時の定年より2年延長して59歳で定年退職しました。


NHK退局後は、講演活動を行う一方、熊本県立劇場館長や青森県立図書館長などを歴任しました。


兄の映画監督・鈴木清順さん(2017年、93歳で死去)も卒寿となるなど長生きの家系でもありました。


鈴木さんは平成が終わる2019年2月に90歳で「昭和からの遺言」を執筆、反戦への誓いを訴えていましました。


1983年のNHK紅白歌合戦でともに司会を務めた女優の黒柳徹子さんは「まじめな番組の鈴木健二さんが、はちまきに扇子で、負けたくない!と、踊りながら出ていらしたときは、どうしても笑ってしまいました」と当時を振り返って追悼しました。


黒柳さんのコメント全文は以下の通り。


鈴木さんとは、紅白歌合戦の司会で赤白にわかれて、大合戦をやりました。

もちろん私は赤です。

鈴木さんは、絶対に負けたくない、と白いふちのメガネ、白と黒のメガネ、あらゆる色に白が入ったメガネで、応戦です。

途中で、白い羽織に着替えたり、白いお扇子でパタパタやったり。

なによりも、圧倒的なのは、お顔の大きさです。

袴から何から、真っ白で、あのご立派なお顔ですから、それだけで負けそうです。

たしか、頭には白いはちまき。

結局、どっちが勝ったか忘れましたが、歴史や勉強で、まじめな番組の鈴木健二さんが、はちまきに扇子で、負けたくない!と、踊りながら出ていらしたときは、どうしても笑ってしまいました。

考えてみると、外から見るより、純真な方だったのですね。負けず嫌いな。


元NHKでフリーに転身した武田真一アナウンサーが3日に自身のインスタグラムを更新し、鈴木健二さんを追悼しました。


「鈴木健二さんと撮って頂いた大切な一枚。放送記念日の特集番組で、ニュースセンターにロケに来られ、私が案内役を仰せつかりました」と生前の2ショット写真を投稿しました。


「現代のニュースや放送のあり方に、厳しいお叱りを受けるものと覚悟していましたが、とても温かく励ましてくださいました」とやり取りを回顧しました。


その時の鈴木さんの様子について「NHKの西口に、おひとりで歩いて来られ、ロケの後もおひとりで歩いて帰られました。去り際にあえて振り返らず、片手だけあげて。淡い夕日の中を、行かれました。かっこよかったです」と思い出しました。


「放送が始まってまもなく100年。その道は、鈴木さんのようなパイオニアが、敷石を一つひとつ、膨大な数並べて造られたものです。そんな仰ぎ見る先輩たちに、私は及ぶべくもありません。しかし、末端でその流れを汲(く)むものとして、なんとしても後に続かねばならないと、背筋が伸びる思いです」と尊敬し、「本当にご指導ありがとうございました。安らかにお眠りください」と悼んでいました。