歌手の八代亜紀さんが昨年12月30日に死去しました。
73歳でした。
所属事務所のミリオン企画が9日、公式サイトで発表しました。
八代亜紀さんは膠原(こうげん)病のため昨年9月から活動を休止していました。
同事務所は「2023年9月に膠原病の一種であり指定難病である抗 MDA5 抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症し療養を続けておりました弊社所属の八代亜紀が12月30日に永眠いたしましたことを謹んでご報告申し上げます」と説明。
葬儀は「八代自身の強い遺志により弊社スタッフのみで2024年1月8日に執り行いとても穏やかな顔で旅立ちました」と明かしました。
「一日も早い復帰を目指し治療とリハビリに励んでおりましたが容態の急変により皆様へこのようなご報告をしなければならなくなりましたことは無念でなりません」と胸中を吐露。
「代弁者として歌を歌い表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の中で常に大切にしていた言葉は『ありがとう』でした 『一人では何も出来ない、支えてくれる周りの皆様に感謝を』という父と母からの教えを八代自身は体現し続けて参りました」と悼んでいました。
療養期間中もスタッフや医療従事者に「みんなありがとう」と感謝を伝えていたそうで「最期まで八代亜紀らしい人柄が滲み出ておりました これから先いつまでも八代亜紀が命を吹き込んだ作品の数々が沢山の人達に愛され皆様の心の中に生き続けることを八代自身も望んでいると思います」と記しました。
最後に「今まで応援してくださったファンの皆様 関係者の皆様に心より深く感謝 御礼申し上げます 本当にありがとうございました」としました。
八代亜紀さんは1950年8月29日生まれ、熊本県八代市出身。
中学校卒業後は地元でバスガイドをしていたが、歌手を目指して上京。
1971年にデビューし、「なみだ恋」「愛の終着駅」「もう一度逢いたい」「舟唄」など数々のヒット曲を出し、1980年に「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞を受賞。
1980年は五木ひろしさんの「ふたりの夜明け」と八代亜紀さんの「雨の慕情」が、日本レコード大賞など賞レースで最後の最後まで大賞を競い、当時メディアから「五八戦争」とも呼ばれました。
「NHK紅白歌合戦」には23回出場し、2年連続大トリを含むトリを3回務めました。
女性演歌歌手のレコード・CDの総売上枚数1位の記録を持っています。
2010年に文化庁長官表彰、2016年日本モンゴル文化大使就任、2018年モンゴルから北極星勲章を授与されました。
絵画でも活躍し、画家の登竜門とも言われる世界最古の美術展であるフランスの「ル・サロン」で5年連続入選を果たして永久会員になりました。
八代さんの代表曲と言えば、「舟唄」(1979年)と、「雨の慕情」(1980年)。
「舟唄」は阿久悠さん(故人)作詞、浜圭介さん作曲。
自身初の男歌で同年、初めてNHK紅白歌合戦の大トリを務めた思い入れの強いナンバーです。
「この歌は机の中に埋もれていたのよ」(八代)。
当時の所属レコード会社のテイチクが「これまでの楽曲の『行かないで』『待っています』とは違う、阿久先生から見た八代亜紀の女心を書いてほしい」と依頼。
数日後に何十曲の詞が阿久さんから用意されたが、テイチクは「今までもこういう歌はありました」と全てをボツにしてしまいました。
阿久さんが激怒し、机の引き出しから「これはどうだ!」と置いたのが「舟唄」でした。
もともとは美空ひばりさん(故人)の曲を書く雑誌の企画で作ったものだったが、運命のいたずらで八代さんのもとへ。
同曲について「私の初めての男歌になった。この歌の力はすごい。私にとってはクラシック(=芸術音楽)と同じ(高貴なもの)です」と評するほどでした。
もともとはコンプレックスだったというハスキーボイスを生かし、心に響く歌を日本中に届け続けた八代さんの原点は、子守歌代わりに聴いた父親の浪曲でした。
歌手を目指して熊本から上京後は、銀座のナイトクラブで下積みを経験しました。
ジャズから流行歌まで何でもリクエストに応える必要があり、あらゆる曲調を歌いこなす歌唱力が培われました。
立ち上がってダンスを始めたり、椅子の向きを変えて聴き入ったりと、クラブでさまざまな楽しみ方をする客との真剣勝負。
八代さんの情感豊かな歌唱力にホステスが感動し、涙を流した逸話もあります。
「演歌の女王」としての地位を確立してからも安住することなく、2012年にはジャズのアルバムを発表。
翌年にはアメリカ🇺🇸・ニューヨークの有名なジャズクラブで公演しました。
2020年には、グラミー賞に輝いたビリー・アイリッシュさんの曲を“熊本弁”でカバーした動画が話題になりました。
2022年には、インターネット上の仮想空間『メタバース』空間から歌声を披露、2022年11月に開催された「日本歌手協会歌謡祭」(2023年1月3日「日本歌手協会 新春12時間歌謡祭」として放送、BSテレビ東京)ではアニソンのコーナーで高橋洋子さんの「残酷な天使のテーゼ」をカバーして歌うなど、歌手としてチャレンジを続けていました。
ジャンルにとらわれない挑戦は、表現の形を歌から演技にも広げました。
女優として菅原文太さん(故人)主演の映画「トラック野郎・度胸一番星」(1977年)に出演。
当時流行した“デコトラ”の運転手にファンが多く、「トラック野郎の女神」とも呼ばれたのがきっかけでした。
他にも小林旭さん主演の「多羅尾伴内」(1978年)、吉永小百合さん主演の「玄界つれづれ節」(1986年)などの映画に出演しました。
1980年には里見浩太朗さん主演のテレビ時代劇「長七郎天下ご免!」(テレビ朝日)にゲスト出演して時代劇に初挑戦し、小刀やかんざしを抜いた殺陣を披露。
収録後には「学生時代はバレーボールとか床運動をやったことがあるので運動神経は自信があったけど、殺陣は大変。難しかった」と謙そんしたが、里見さんは「とてものみ込みが早い。感情のこもった演技も堂々たるもので、立派ですよ」。時代劇の名優からも「女優・八代亜紀」に太鼓判を押されるほどでした。