王に756号を打たれた鈴木、亡くなっていた | 女装男子かなこのブログ

女装男子かなこのブログ

あたし、かわいいものが大好きな女装男子です❗
女装に年齢は関係ありません❗

元ヤクルト、近鉄投手の鈴木康二朗(すずき・やすじろう)さんが、肺炎のため、2019年11月19日に福島市内の病院で死去していたことが13日、分かりました。


70歳でした。


シンカーを武器に、1978年に13勝3敗で最高勝率投手(.813)となり、ヤクルトの球団史上初となるリーグ優勝、日本一に貢献。


王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)に世界新記録となる通算756号本塁打を打たれた、多くの野球ファンの記憶にも残る名投手でした。


屈辱の一発を糧にした名投手が、静かに天国へ旅立ちました。


娘の前川麻由さんによると、ヤクルト、近鉄で活躍した鈴木さんは現役引退後、故郷の北茨城市でアパレル会社や廃棄処理会社で勤務していました。


60歳で定年退職した後に脳梗塞を患い、福島市内の病院で療養していました。


2019年11月19日、肺炎のため死去していたが、遺族の意向もあり、公表することになりました。


鈴木康二朗さんは1949(昭和24)年4月18日生まれ。茨城県出身。


県立磯原高校、日本鉱業日立を経て1973年にドラフト5位でヤクルトに入団しました。


189センチの長身から投げ下ろす直球とシンカーを武器に活躍しました。


背番号21を付けた1977年に14勝(9敗)を挙げ、松岡弘投手、安田猛投手(故人)と先発三本柱を形成しました。


1979年には13勝3敗で最高勝率投手(.813、当時はセ・リーグの表彰対象外)となり、ヤクルトを球団初のセ・リーグ優勝、日本一に導きました。


眼鏡をかけて投げる姿も印象的で、チームメートから「ジャンボ」と呼ばれて愛されました。


鈴木さんを一躍、時の人にしたのが1977年9月3日の巨人戦(後楽園球場)です。


3回裏1アウト、王貞治選手に決め球のシンカーを右越えに運ばれ、世界新記録となる通算756号本塁打を打たれました。


ハンク・アーロンの記録を上回る一発を放ち万歳してベースを回る王選手と、悔しがる鈴木さんの映像は、昭和の名場面として野球ファンに語り継がれています。


当時、勝負を避ける投手が多かった中、鈴木さんは真っ向勝負を挑みました。


試合後には「756号を打たせてやった鈴木、と書いて」と話し、不名誉な投手にアメリカ・コンチネンタル航空から贈呈される予定だったサイパン旅行を断った逸話もあります。


「756号を打たせてやった鈴木」はいしいひさいちさんの漫画「がんばれ!タブチくん」でもネタにされました。


756号を被弾した投手として取り上げられることが多かったが、娘の前川さんは「とにかく記憶に残っているのは『おれは逃げなかった』『今後は、王さんに恥ずかしくないように生きていく』という言葉です」と振り返っていました。


その言葉通り、鈴木さんは記録をつくられた翌1978年にヤクルトの球団初となるリーグ優勝、日本一に貢献しました。


1983年に近鉄に移籍した後は救援で活躍し、1984、85年には最多セーブを記録しました。


1986年に引退しました。


通算成績は81勝54敗52セーブ、防御率3.68でした。


プロ野球引退後も社会人軟式でプレーし、茨城県代表として1995年の国体に登板しました。


2012年には夕刊フジの取材に「打たれて良かった。これをきっかけに、燃えて成績は上がったわけだから。王さんには『ありがとうございました』という気持ち」と語っていました。


王選手の引き立て役で終わらず、反骨心を胸に活躍しました。


王貞治選手が本塁打世界新記録を達成したのが、1977年9月3日の巨人―ヤクルト戦(後楽園球場)。


通算756号に王手をかけた王選手は、2試合本塁打が出ず、9月3日のヤクルト戦を迎えました。


先発投手の鈴木投手は「俺の日に来たか」と、複雑な思いで後楽園球場のマウンドに上がりました。


当時28歳の右腕にとって、1977年は初めて先発のローテーションをつかんだ飛躍のシーズン。


右打者の内角に食い込みながら落ちるシンカーを武器に、打たせて取る投球が身上でした。


この一戦でも、捕手の八重樫幸雄選手とは「シンカーで攻めよう」と確認していました。


新記録を献上するのはご免だが、四球で逃げ回るつもりはありません。


普段は口数少ないが、マウンドでは勝負度胸を発揮する鈴木投手の性格は、この試合でも変わりませんでした。


その瞬間が訪れたのは、3回裏、1アウト、ランナーなし。


球場は緊張感に包まれました。


重圧を受けながら、鈴木投手は右腕を振り、外角にシンカーを続けてカウント1ボール1ストライク。


ここで、八重樫選手は一転して内角にミットを構えました。


ひざ元を鋭く突いたスライダーは、わずかに外れてボール。


4球目は3球目と同じような内角低めのスライダー、王選手は豪快にバットを振り切ったが、ファウル。


鈴木投手の直球はシュート回転しやすかったため、小さく曲がるスライダーを多用していました。


芯を外された王選手は首をひねりました。


5球目、バッテリーは勝負に出ました。


サインは外へのシンカー。


ところが、「ここで決めたい」という意識が力みを呼び、外角へ大きく外れました。


この1球が、勝敗の分かれ目となりました。


フルカウントとなり、スタンドがざわめきました。


1回裏の打席では、フルカウントから四球を与えていました。


追いつめられた鈴木投手は、勝負に出ました。


外角低めのシンカーで内野ゴロに取ろうとしました。


しかし、ボール球は投げられないという気持ちがそうさせたか、外いっぱいを狙った球は、甘く真ん中へきました。


王選手のバットが一閃し、打球はあっという間にライトスタンドに飛び込みました。


「756号を打たれた投手」の称号を背負わされた鈴木投手だが、それを励みに奮起しました。


「自分が潰れたら、王さんが一人の投手を殺したことになる。打たれたことで頑張れた」


この年に自己最多の14勝を挙げると、翌1978年は13勝3敗で球団初の日本一に貢献しました。


「全球勝負した鈴木は、称賛されるべきだ。(打たれた6球目も)見送っていたら私の手は上がっていたでしょう」と、この試合で球審を務めた富沢宏哉氏は言います。


世界の王選手に真っ向勝負を挑んだ結果として浴びた歴史的な本塁打を、鈴木投手は一度も不名誉と思ったことはありませんでした。