テレビが家庭に1台だったころ、子ども番組は各局のタイムテーブルに溢れていました。
親子で一緒に見る番組、子どもたちがちょっと背伸びをして見る番組、憧れの参加型番組など、子どもの学びと成長に寄与するような番組の数々は、放送史上貴重な財産であります。
テレビは子どもとどう向き合ってきたのか。
子ども時代はあっという間に過ぎてしまいます。
人生のなかでもごく一部でしかないが、多くのことを吸収する大事な時期です。
親など家族から学び、学校や地域社会、書籍やテレビなどのメディアからも学びます。
では、子どもたちの成長にかかわるテレビ自身は、子どもたちとどう向き合ってきたのでしょうか。
NHK東京テレビジョンは、1953(昭和28)年2月1日午後2時に開局しました。
テレビ契約台数がわずか866というなか、さっそく午後6時30分から「子供の時間」が放送されました。
童謡歌手の古賀さと子らが出演するバラエティ形式の30分でした。
この「子供の時間」は、NHKがラジオでも用いた番組名で、ラジオのほうも東京放送局の本放送開始日の1925(大正14)年7月12日に始まっていました。
東京・名古屋・大阪の3放送局が合併して現在のNHKとなった翌1926年9月には午後6時開始に固定されており、ラジオ開始の段階で、午後6時台が「子ども中心の時間帯」として定着していたことになります。
この編成方針は、民間放送でもほぼ同じでした。
1953年8月開局の日本テレビは、翌週31日月曜日から、日中の放送休止明けの午後5時30分に「テレビ子供新聞」「テレビ動物園」や人形劇などを開始しました。
こちらは直接の競合を避ける意味もあったのでしょう。
午後6時台には娯楽番組を多く並べました。
1955年開局のラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)は、平日の日中休止明け午後6時10分からを影絵劇や人形芝居、短編映画などを揃えました。
1959年に日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日、以下同じ)とフジテレビが開局しても、大きくは変わらなかったです。
特にNETでは、午後6時57分から連日、気象情報に大人も子どももないとは思うが「こども天気予報」を放送していました。
この年はNHK教育テレビ(Eテレ)も開局しました。
1959年の皇太子殿下(上皇陛下)ご成婚などをきっかけにテレビが飛躍した年とされています。
読売新聞は他紙に先駆けて番組表をテレビ主体の配置に変えました。
当時の番組表を見ると、午後6時台から10時台までが同じ行数(教育テレビのみ小さい番組表)で、この扱いは1960年代後半まで続きました。
“子どもの時間”が主要な位置を占める時代はたしかにありました。
そして、子ども向けといえる番組群が午後7時台までの2時間のなかで数多く制作されていく時代が始まったのです。
1950年代、映画会社5社(松竹・東映・東宝・大映・新東宝)は悪名高き「五社協定」を結んでいました。(1958年に日活も参加して6社となるが、1961年に新東宝が倒産して5社に戻る)
これはもともと日活による所属俳優引き抜きを防止するための協定だったが、テレビの台頭によって性質が変わりました。
1956年にテレビへの劇映画提供を打ち切り(1958年に日活も)、テレビは自身の企画で、出演者も自前で探さなければならない状況となりました。
そんななか、初の本格的テレビ映画として、日曜午後7時からの「タケダアワー」(武田薬品の一社提供)30分枠で「月光仮面」(1958年、ラジオ東京テレビ)が生まれました。
男の子たちはチャンバラごっこと同様に月光仮面ごっこに興じたうえ、ケガをすることも多かったというそうです。
前年の評論家・大宅壮一らによる流行語「一億総白痴化」を補強するような熱狂ぶりでした。
「月光仮面」と並び称される「七色仮面」(1959年、NET)は、変身ヒーロー・特撮ものの元祖といわれます。
NETには東映が資本出資しており、その関係で東映テレビ・プロダクションという別会社が設立されていました。
演技陣はいわゆる映画スターではない(第2部主演は千葉真一)ものの、ごく初期を除いて、映画会社は結局テレビ制作に深くかかわり続けるようになります。
東映テレビはこの後も、雑誌「少年画報」に連載されていた「白馬童子」(1960年・NET)を山城新伍主演で放送。
テレビがスターを生む構造も、このあたりから顕著になります。
一社提供が一般的だった時代に、「タケダアワー」枠は円谷プロダクション制作の「ウルトラQ」(1966年、TBS)を送り出しました。
次作の「ウルトラマン」(1966~67年、TBS)などの大ヒットにより、特撮は主要なジャンルとなりました。
一方、「ジャイアントロボ」(1967~68年、NET)「仮面の忍者赤影」(1967~68年、関西テレビ)で特撮ものに挑み、タケダアワー枠では「キャプテンウルトラ」(1967~68年、TBS)やスポ根(スポーツ根性)もののはしりとなった「柔道一直線」(1969~70年、TBS)をヒットさせた東映は、「仮面ライダー」(1971~73年、毎日放送)、「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975~77年、NET)から始まったスーパー戦隊シリーズ、「宇宙刑事ギャバン」(1982~83年、テレビ朝日)から始まったメタルヒーローシリーズなどを送り出します。
「仮面ライダー」シリーズは1号から「仮面ライダーアマゾン」(1974~75年)までNET系で放送されていたが、1975年4月の「大阪ネットチェンジ」(毎日放送と朝日放送のネット交換)で「仮面ライダーストロンガー」(1975年)から「仮面ライダーBLACK RX」(1988~89年)までTBS系での放送となり、「仮面ライダークウガ」(2001~02年)から始まった「平成/令和仮面ライダー」はテレビ朝日系で放送されています。
「大阪ネットチェンジ」で「仮面ライダー」シリーズを失う形となってNETが「ライダーに代わる新しいヒーローものを」と企画して生まれたのが「秘密戦隊ゴレンジャー」です。
TBSは日曜午後7時30分からの「不二家の時間」(不二家の一社提供)でもヒットを飛ばします。
アニメからドラマに軸を移してから、「サインはV」(1969年)や「美しきチャレンジャー」(1971年)といった女子スポ根ものが人気を博します。
「サインはV」は1969年版は岡田可愛主演、1973年版は坂口良子主演でしたが、1973年版では「不二家の時間」ではなくなっていました。
1973年版「サインはV」では、同年に放送された「ウルトラマンタロウ」でのコラボレーションもありました。
また、同じTBSの月曜午後7時30分からの「ブラザー劇場」(ブラザー工業の一社提供)枠からは「コメットさん」(1967~68年(九重佑三子主演)・1978~79年(大場久美子主演))、「刑事くん」(1971年)、「刑事犬カール」(1977年)が生まれました。
かつての異名“ドラマのTBS”は子ども番組も含めたものであったといえるのではないでしょうか。
1972年、NHK総合では「少年ドラマシリーズ」「中学生日記」が始まりました。
小学生高学年もしくは中学生向けで、子ども向けドラマと一般ドラマの隙間を埋める役割を果たしたといっていいでしょう。
「少年ドラマ」第1作は、筒井康隆のSF小説「時をかける少女」が原作の「タイム・トラベラー」でした。
この枠はかなり意欲的で、その後は純文学(伊藤左千夫「野菊の墓」)からミステリー小説(松本清張「高校殺人事件」が原作の「赤い月」)まで幅広く、90以上の作品を送り出し、1983年に終了しました。
学校生活そのものを題材にした「中学生日記」は、2004年から教育テレビ(Eテレ)に移動、2012年まで40年続きました。
このほかにも「チャコちゃん・ケンちゃんシリーズ」(TBS)や、石ノ森章太郎原作の「がんばれ!レッドビッキーズ」(1978~79年、テレビ朝日)「透明ドリちゃん」(1978年、テレビ朝日)、山中恒の小説を原作にした「あばれはっちゃくシリーズ」(1979~85年、テレビ朝日)も子ども向けの代表的ドラマとして挙げられるでしょう。
「チャコちゃん・ケンちゃんシリーズ」はTBSと国際放映のオリジナル作品でしたが、国際放映は1961年に倒産した新東宝を母体としています。
だが、現在では子ども(少年少女世代)が主役を演じる番組そのものもほとんど見ることはなくなってしまいました。
初の国産テレビアニメといわれる「鉄腕アトム」(1963~64年、フジテレビ)は手塚治虫の漫画が原作で、アニメ化の前には2回実写版が放送されました。(1957年・ラジオ東京テレビの人形劇、1959年・毎日放送の一部特撮版)
アニメ版の成功は、キャラクタービジネスの成功であり、またそれまで難しかった物語世界および造形を忠実に再現できることを意味しました。
これにより、一度1960年に実写化(日本テレビ)されていた横山光輝原作の「鉄人28号」(1963年、フジテレビ)は一気にテレビのヒーローとなりました。
「鉄腕アトム」のヒットを受け、同じ1963年にはNETが「狼少年ケン」、TBSが「エイトマン」で国産アニメの放送に乗り出しました。
ただ、日本テレビは海外アニメに力を入れていたため国産アニメの放送開始は遅れ、1965年の「戦え!オスパー」が最初となりました。
また、アニメが「少女向け番組」の世界を広げたことも注目されます。
横山光輝原作の「魔法使いサリー」(1966~67年、NET)は魔法を使うゆえ実写化には特撮の技術が必要とされる場面が多いです。
その点もアニメゆえに解決できたことでしょう。
その後の赤塚不二夫原作「ひみつのアッコちゃん」(1969~70年、NET)や「魔法のマコちゃん」(1970~71年、NET)「魔女っ子メグちゃん」(1974~75年、NET)などと合わせて、のちに東映アニメーションの「魔女っ子シリーズ」として扱われるようになった作品群のほかにも、手塚治虫原作の「ふしぎなメルモ」(1971年、朝日放送)のような科学の分野を扱ったもの、「キャンディキャンディ」(1976~79年、テレビ朝日)「花の子ルンルン」(1979~80年、テレビ朝日、東映アニメーションの「魔女っ子シリーズ」にも含まれる)「ベルサイユのばら」(1979~80年、日本テレビ)「明日のナージャ」(2003~04年、朝日放送)のように舞台が外国のものなどまで放送できるようになりました。
これらは、それまで男の子向け中心だった原作(漫画・小説)の物語世界をテレビで再現するにとどまらず、おもに女の子が楽しめる番組の開発を可能にしました。
その延長線上には「世界名作劇場」がありました。
「世界名作劇場」シリーズは日本アニメーションが制作、フジテレビ系で「フランダースの犬」(1975年)から「家なき子レミ」(1997年)までに23作品が放送された後、2007年からBSフジで放送された「レ・ミゼラブル 少女コゼット」(2007年)「ポルフィの長い旅」(2008年)「こんにちはアン ~before green gables」(2009年)を含めた3作品、計26作品があります。
「母をたずねて三千里」(1976年)「あらいぐまラスカル」(1977年)「赤毛のアン」(1979年)「小公女セーラ」(1986年)、公式には「世界名作劇場」に含まれないが「ムーミン」(1969・1972年)「アルプスの少女ハイジ」(1974年)も含め、これら海外文学作品のアニメ化は、日本PTA全国協議会なども絶賛しました。
国産アニメの放送開始が遅かったNHKも、「未来少年コナン」(1978年)「キャプテンフューチャー」(1978~79年)「マルコ・ポーロの冒険」(1979~80年)「ニルスのふしぎな旅」(1980~81年)「名犬ジョリィ」(1981~82年)「スプーンおばさん」(1980~82年)など、海外文学作品をアニメ化していました。
余談だが、1969年版ムーミンのオープニングでは字幕に「推せん」として日本視聴者会議、中央児童文化審議会、放送批評懇談会(第11回)が名を連ねていました。
補足すると、この第11回とは当時のギャラクシー賞が設けていた期間選奨の11回目(1969年10~12月期)を意味します。
さらに、テレビ局の経営危機を救ったともいえるのが「マンガのくに」(1967年、東京12チャンネル)です。
1964年に科学教育専門局として開局したもののすぐに経営危機となった同局は、1966年に大幅な放送時間削減を行いました。
この緊急事態から抜け出したときに午後6時45分に平日ベルト編成したのが「マンガのくに」でした。
この枠は海外アニメが中心だったが、かつてNETで半年余り放送された「チキチキマシン猛レース」を頻繁に再放送するなどして関東地区の子どもの間で定着しました。
さらに1971年には同様の「まんがキッドボックス」を開始しました。
こちらは明治製菓が一社提供枠で、1980年代にテレビ東京と改名し、大阪や愛知にネットワークを広げるまでの東京12チャンネルの安定化に大いに貢献しました。
今やアニメは子ども向けとはいえないほど多岐にわたるようになったが、初期のテレビアニメの功績は大きかったといえるでしょう。
テレビが一家に1台だった時代、子ども番組は家族で楽しむひとつのジャンルだったように思われます。
一方で、学童年齢に満たない子どもに向けた番組は、午前から日中にかけて広がっていきました。
代表格はやはり「おかあさんといっしょ」(1959年~放送中、NHK)です。
スタジオに子どもたちを集めての歌あり体操あり人形劇ありの構成は不変で、偉大なるマンネリといっても差し支えありません。
今は幼児向け番組といえばEテレの独壇場のようになってしまったが、1960~70年代は同種の番組が競って放送されていました。
「ロンパー・ルーム」(1963~79年、日本テレビ)は「教育・遊び・おやつ・絵本」という本家アメリカの番組スタイルを踏襲したものでした。
うつみ宮土理はこの番組で司会を務めたため、「ケロンパ」のニックネームがつきました。
また「おはよう! こどもショー」(1965~79年、日本テレビ)はショーと名乗るとおり娯楽色が強め。
「ママとあそぼう! ピンポンパン」(1966~82年、フジテレビ)は「おかあさんといっしょ」よりさらに開放的にといった具合で、それぞれ平日の異なる時間帯で個性を磨いていました。
やや遅れて「こどもワイドショー ブンブンバンバン」(1973~75年・名古屋テレビ)「あそびましょパンポロリン」(1973年・NET)も参入。
「ブンブンバンバン」は2年で終了したが、ほかは1970年代の子どもたちのよき仲間として歩んでいました。
これらスタジオ参加番組のほかにも、教科学習に準ずる内容をナンセンスなコントを交えて伝えた「カリキュラマシーン」(1974~77年、日本テレビ、現在はオープニングテーマ曲が「チコちゃんに叱られる」(NHK)で使われている)や、社長肝いりで幼児番組研究を重ね、万全の体制で開始した「ひらけ!ポンキッキ」(1973~2007年、フジテレビ)などがありました。
このうち、1980年代以降を生き延びたのは「おかあさんといっしょ」と「ポンキッキ」です。
そして「ポンキッキ」を生むきっかけとなったアメリカ制作の「セサミストリート」(1971~80年、NHK教育)だけです。
「おかあさんといっしょ」も1985年に夕方の再放送が、1998年には朝の本放送も教育テレビ(Eテレ)に移行しました。
「ポンキッキ」も1993年に「ポンキッキーズ」と改題後は対象年齢を上げて大幅に内容を変更、放送時間移動も頻繁になり2007年に地上波放送を終了、以後はBSフジでの放送となり、2017年に終了しました。
ニュース・情報番組にも子ども番組がありました。
ラジオの時代からのNHK「子供の時間」にはニュースが含まれていました。
ニュースといっても子どもになじみやすい、いわゆる「話題もの」がほとんどだったと言われているが、これは民放ラジオ、テレビでも開局当初から同様の番組は作られていました。
そのなかで異色だったのは「こども世界ニュース」(1962年・NET)です。
放送時間は午後4時台から6時台で安定しなかったが、世界各国の事情を伝えるものまで含め、硬軟とりまぜた内容をわかりやすく伝えようとするものでした。
1973年にNETは教育専門局から一般局の免許に移行、1977年にテレビ朝日という通称(2003年からは社名も)に変わっても1979年まで続いていました。
そして、超実験的な試みとして、中高生たちがニュースを伝え、解説も行う「ニュースキッド715」(1979年・東京12チャンネル)というのもありました。
子ども番組は“子どもが見る番組”だけではありません。
“子どもが参加する番組”もあります。
かつて日本PTA全国協議会による「ワースト番組」の常連だったが、毎回高視聴率を上げていた「8時だョ! 全員集合」(1969~85年、TBS)は、関東近郊の市民会館など公共施設に観客を集め、毎回生放送でした。
子どもたちは、「全員集合!」「オーッス!」の掛け声と繰り広げられるコントの笑いで、満たされた時間を過ごしたことでした。
当時は週休2日が普及しておらず、土曜日も学校は午前中のみ授業があり、子どもたちにとって土曜日は多少の夜ふかしが許されるような感覚がありました。
この手法は、変身ヒーローものの「突撃! ヒューマン!!」(1972年、日本テレビ)でも使われました。
特撮ではなく客席とテレビの前の子どもたちが変身を促すサインを送るという実験的な演出を交えた公開舞台劇は、「仮面ライダー」の裏番組ゆえ振るわず、わずか3カ月で終了したが、ただ見るだけではない“主体性”を持ち込もうという意欲作でした。
テレビへの参加といえば、いまも好評放送中の「おはスタ」(1997年~放送中、テレビ東京)の前身番組に「おはようスタジオ」(1979年)がありました。
当初は主婦向け・子ども向け情報番組だったが、間もなく子ども向けに特化しました。
この“初代おはスタ”が2000年にテレビ東京開局35周年記念の特別番組として1日だけ復活したとき、1980年の新年特番で保管したタイムカプセルを20年ぶりに開封、元の持ち主に戻そうという企画がありました。
スタジオでは当時の司会陣が集まり、番組を代表する曲「わんぱく宣言」の大合唱となりました。
ありがちなタイムカプセル開封の儀式をマスメディアであるテレビが愚直に行ったことは、“かつての”子どもたちの心にしっかり響いたでしょう。
また、中部日本放送(CBC)は2011年、開局60周年記念特番として「オトナの天才クイズ」を放送しました。
これは当時、局が視聴者に「やってほしいこと」を募ったところ、1967年から37年間も続いた「天才クイズ」の復活希望が多かったのを受けて企画されました。
「天才クイズ」はローカル番組だったので全国的な知名度はなかったが、中京地区ではよく知られていた番組です。
会場の参加者は大人でも、番組に親しんでいたころの童心に戻って、楽しそうに⭕️❌の札を掲げていました。
また、「ベルトクイズQ&Q」(1969~80年、TBS)「アップダウンクイズ」(1963~85年、毎日放送)「パネルクイズ アタック25」(1975~2021年、朝日放送)などの視聴者参加型のクイズ番組では、夏休みには小学生大会を開催、全国の予選を勝ち抜いた小学生たちがクイズを競っていました。
こうしてみると、子ども番組はけっして「点」ではなく、幼い(若い)心の中に刻み込まれ、長く記憶される「線」であるという“本質”が見えてきます。
いま見渡すと、子どもが参加できる番組は群馬テレビ「ポチッとくん体操」や千葉テレビ「チュバチュバワンダーランド」など、わずかしかありません。
地方局や独立UHF局がテレビの本質ともいえる「参加する興奮」「出場する喜び」を忘れずにいることはじつに頼もしいが、全般的に見れば退潮はあきらかです。
そして、子ども番組はほとんど選択肢のない狭い領域・狭い時間帯に追いやられてしまいました。
TBSは2019年6月限りで子ども番組の制作、放送を打ち切ってしまいました。
ほんとうにこれでいいのでしょうか。
動画配信サイトが台頭する今、子どもにかぎらず視聴選択のなかでテレビが埋没しないためには、「コンテンツ」ではなく「番組」、それもテレビならではの一体感を得られる仕掛けが必要なのかもしれません。
(敬称略)