背番号 | 女装男子かなこのブログ

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野球では19世紀末に「背番号」を導入したチームがあったが、定着しませんでした。

20世紀以降も何度か「背番号」を導入したチームがあったがこれも定着しませんでした。

当時の選手には背番号が「囚人みたいだ」と不評で、ファンから名前ではなく「背番号」で呼ばれることにも抵抗があったようでした。


1929年になってクリーブランド・インディアンズとニューヨーク・ヤンキースが背番号を導入しました。

ヤンキースは、背番号は選手の希望ではなく、打順で番号を振り分ける形でした。

1 アール・コムズ「1」

2 マーク・コーニグ「2」

3 ベーブ・ルース「3」

4 ルー・ゲーリッグ「4」

5 ボブ・ミューゼル「5」

6 トニー・ラゼリ「6」

7 レオ・ドローチャー「7」

8 ジョニー・グラボウスキー「8」

の順でした。

投手は11番以降の背番号をつけました。

ルース、ゲーリッグという史上最高の打者たちが背番号をつけて大活躍したことから、背番号はアメリカの野球界で定着しました。

当初はポジションや打順で背番号を振り分けていたが、野球では選手が違う打順、違うポジションで起用されることが多いため、次第に選手の希望や球団の都合で背番号が付けられるようになりました。


日本では1931年の夏の甲子園の中等学校野球選手権大会から背番号が付けられました。

ポジションによって付けられる形で、

1 投手「1」

2 捕手「2」

3 一塁手「3」

4 二塁手「4」

5 三塁手「5」

6 遊撃手「6」

7 左翼手「7」

8 中堅手「8」

9 右翼手「9」

という方式でした。

このスタイルは、現在の高校野球でも踏襲されています。

また1931年の日米野球でも、日本代表選手は背番号をつけてプレーしました。

1935年、設立間もない東京巨人軍は、アメリカに遠征したが、このときは日本らしさを出そうと漢字の背番号のユニホームを着用しました。

漢字がわからないアメリカだが、「あのプラス(+)、マイナス(―)の背番号の選手はどこを守っているのだ」と言われたというそうです。

選手の永久欠番は大リーグでは、1939年、ヤンキースの大打者ルー・ゲーリッグが不治の病によって引退を余儀なくされたときに「4」が、永久欠番(retired number)になったのが始まりです。

偶然にも、日本での最初の永久欠番も「4」でした。

1947年、現役中に病死した巨人の黒沢俊夫の「4」が、戦死した沢村栄治の「14」とともに永久欠番になりました。

以後、球団に多大な貢献をした選手の背番号が、球団の判断で永久欠番になりました。

大リーグでは、複数のチームで活躍した選手が、それぞれのチームで永久欠番になっているケースがあります。

ノーラン・ライアンはエンゼルスの「30」、アストロズ、レンジャーズの「34」と3球団で永久欠番になっています。

大リーグでは選手の移籍が激しいため、シーズン中に何人もの選手が同じ背番号をつけることがあります。

そのため、選手の識別をするのが難しかったです。

1960年にはシカゴ・ホワイトソックスが背番号に加えて「選手名」も背中につける“背ネーム”のようになりました。

日本プロ野球でも、1964年に大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)が「背ネーム」を導入しました。

だが、その時の背ネームは名前ではなく本拠地の川崎球場の「KAWASAKI」で、後に太平洋クラブライオンズ(現在の西武ライオンズ)も本拠地の福岡からユニホームの背に「FUKUOKA」と付いていました。

「背ネーム」はファンに好評で、日米ともに広がっていったが、大リーグではヤンキースやサンフランシスコ・ジャイアンツ、ボストン・レッドソックスのように現在も「背ネーム」を導入していないチームもあります。

また「背ネーム」は選手が入れ替わるたびに作る必要があり、コスト高になるため、アメリカではマイナーリーグのユニホームには付けられていません。

1997年、大リーグは黒人初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンの大リーグデビュー50年をたたえて彼の背番号「42」を全球団共通の「永久欠番」にしました。

その時点で「42」だった選手は、引退までつけることが認められました。

2013年に最後の背番号「42」だったヤンキースのマリアノ・リベラが引退し、「42」をつける選手はいなくなりました。

日本では「42」は「死に番」に通じるとしてそれほど人気のある背番号ではなかったが、この時期から外国人選手が好んで「42」をつけることが多くなりました。

2007年、日本プロ野球は育成選手制度を導入しました。

育成ドラフトによって支配下70選手とは別に、「育成枠」で選手を獲得できるようになりました。

育成選手は、支配下選手と区別するために「3桁」の背番号をつけることとなりました。

3桁の背番号は育成選手のほか、ブルペン捕手や打撃投手、球団オーナー、マスコットなどが付けており、「001」など「0」から始まる背番号を育成選手につける球団もあります。

巨人では、育成選手が000番台、三軍コーチが100番台、打撃投手・ブルペン捕手が200番台、ジャビットが333と555、シスタージャビットが777となっています。

球団マスコットの背番号は球団では球団によってまちまちで、中日のドアラは1984(名古屋・東山動植物園でコアラの公開が始まった1984年にちなむ)、広島のスライリーは「!」、楽天のクラッチは10などとなっています。

楽天の10はファンのための背番号として球団創設から永久欠番になっており、そのため楽天ではこれまで背番号10をつけた選手がいません。


少し前まで、日本のプロ野球では野手は「一桁の背番号」を目指すものだと言われました。

二軍の試合では大きな背番号をつけた若手選手に向かって「背番号が重たそうだぞ、早く軽い(一桁の)背番号をつけるようになれよ!」という掛け声がかかったものでした。

その後、有名選手も好みで大きな背番号をつけるようになったが、育成制度の導入で、下から這い上がる若手選手はまた「重たい背番号」を背負うようになりましたり

彼らも「軽い背番号」を目指しているのです。

背番号は今も「選手のステータス」にしっかり関わっているのです。