東京オリンピックと野球 | 女装男子かなこのブログ

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2020年は東京オリンピックが開催されます。


これに合わせて、日本の野球はプロもアマチュアもこれに協力します。


プロ野球は7月19・20日にオールスター戦を開催した後、7月21日から8月13日まで公式戦を休止、さらに神宮球場が東京オリンピックの資材置き場に、横浜スタジアムが野球・ソフトボールの会場に、札幌ドームがサッカーの会場になるなるため、ヤクルトスワローズと横浜DeNAベイスターズ、日本ハムファイターズは約2か月間はそれぞれの本拠地球場で試合ができず、その前後のホームゲームの一部を東京ドームで開催します。


ヤクルトスワローズは松山坊っちゃんスタジアム、横浜DeNAベイスターズは千葉マリンスタジアム、日本ハムファイターズは旭川スタルヒン球場や沖縄セルラースタジアムなどでもホームゲームの一部を開催します。


特に、日本ハムファイターズは阪神タイガースの夏の高校野球期間中の「死のロード」や、仙台を暫定的に本拠地としていた頃のロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の「ジプシー・ロッテ」をしのぐ長期ロードになりそうです。


高校野球は夏の東西の東京都大会の準決勝と決勝を東京ドームで開催します。


そして甲子園大会は東京オリンピック閉幕後の8月10日に開幕します。


都市対抗野球は11月に開催されます。


では、その前に東京オリンピックが開催された1964年の日本のプロ野球はどうだったのでしょうか。


1964年の日本プロ野球は、セ・リーグは3月20日、パ・リーグは3月14日に開幕、日本シリーズは9月29日開幕、東京オリンピックの開会式前日となる10月9日までに終了する予定でした。


パ・リーグは9月19日、南海ホークス(現在のソフトバンクホークス)が優勝を決めました。


南海はジョー・スタンカ投手が26勝をあげてエースに君臨、杉浦忠投手が20勝でそれに続き、打線はチーム打率がリーグ1位で、広瀬叔功選手が打率.366で首位打者、野村克也選手が41本塁打で本塁打王、115点で打点王を獲得、また、外国人選手のハドリ、ローガンの両選手も打線の中核で活躍したチームでした。


セ・リーグは最後まで優勝争いがもつれ、9月30日に阪神タイガースが優勝を決めました。


阪神はジーン・バッキー投手が29勝で最多勝、村山実投手も22勝をあげ大活躍、前年に小山正明投手との世紀のトレードで阪神にやってきた山内一弘選手が打線を引っ張ったが、チーム防御率がリーグ1位なのが物語るように、投手陣が引っ張っていました。


日本シリーズは予定より2日遅れで10月1日に開幕しました。


阪神にとっては、優勝を決めた翌日に日本シリーズ開幕という強行軍になりました。


阪神と南海、大阪のチーム同士で盛り上がると思いきや、東京オリンピック直前のためか今一つ盛り上がらず、甲子園球場での第1、2戦では2万人を切る観客数、大阪球場の第4戦でやっと3万人を超えたものの、最終第7戦の甲子園では15,172人と、フランチャイズ制になってからの日本シリーズ史上最低観客数を記録してしまいました。


また、この年の日本シリーズは全ての試合がナイトゲームで行われました。


10月1日、甲子園球場の第1戦は前日に公式戦で優勝したばかりの阪神が疲労が残っていたのか、先発の村山実投手の力投だけが目立ち、阪神打線は南海先発のスタンカ投手に3安打に抑えられ、2―0でスタンカ投手の完封で南海が勝利。

(阪神0勝、南海1勝)


10月2日、第2戦は南海は杉浦忠投手、阪神はバッキー投手の先発。


南海内野陣が乱れ、着実に阪神が得点をし、バッキー投手が完投で5―2で阪神が勝利。

(阪神1勝、南海1勝)


1日おいて10月4日、大阪球場に移動しての第3戦。


南海は中2日でスタンカ投手、阪神は本間投手の先発。


この日は阪神5番の藤井栄治選手がラッキーボーイになり、2回にソロ、3回はなんと満塁の2打席連続本塁打を打ち、追う南海をバッキー投手が締めて、阪神が5―4で勝利。

(阪神2勝、南海1勝)


10月5日、第4戦は阪神は村山投手、南海は杉浦投手の両エースの先発。


ふたりとも初登板は負け投手。


この日は、山内選手が2本の本塁打を打つものの、南海が広瀬選手、国貞泰汎選手のタイムリーで3―3の同点となり、9回ウラ、南海はハドリ選手がサヨナラ本塁打を打ち、南海が4―3で勝利。

(阪神2勝、南海2勝)


10月6日、第5戦は両チームともエースを温存し、阪神はバーンサイド投手、南海は皆川睦雄投手の先発。


打つ方も伏兵が頑張り、阪神は辻佳紀選手、安藤統男選手の本塁打、南海は森下整鎮選手の本塁打でなどで追ったが、最後はバッキー投手がリリーフで抑え、6―3で阪神が勝ち、初の日本一に王手をかけました。

(阪神3勝、南海2勝)


10月8日、予定されていた第6戦が雨で中止。


10月9日、第6戦は再び甲子園。


南海はスタンカ投手、阪神はバッキー投手と、この年のエース同士の先発。


阪神は勝てば初の日本一のプレッシャーなのか、守備も攻撃も振るわず、スタンカ投手が99球の完封、4―0で南海の勝利、3勝3敗のタイになりました。


第7戦の先発は阪神はエース村山投手、南海は前日完封勝利したスタンカ投手が2日連続の先発。


村山投手は南海・広瀬選手の足を警戒するあまり、バッターに集中できなかったのか?初回に広瀬選手が内野安打で出塁すると、二塁に盗塁に成功、ハドリ選手がタイムリー二塁打、ミートに徹した野村克也選手のタイムリーヒットで2点を先取。


スタンカ投手が緩急をつけた技のピッチングでそのまま2試合連続の完封、3―0で南海が勝利。


南海が1959年以来の日本一になりました。


南海・鶴岡一人監督にとって自身2度目、そして最後の日本一になりました。


スタンカ投手、バッキー投手と日本プロ野球史上最高の外国人投手(二人共100勝を超えている)、ハドリ選手もかなり活躍し、「外国人シリーズ」として記憶に残る日本シリーズになりました。


4試合に先発して3完封勝利をした南海のスタンカ投手がMVPを獲得しました。


南海が4勝3敗で終わったシリーズは、第7戦の10月10日、東京オリンピック開幕の日に終わりました。


また、日本シリーズはこの翌年から1993年まで再び全試合デーゲームで開催されました。