1959年から63年まで近鉄バファローズ(現存しない)の右腕エースとして活躍したグレン・ミケンズ氏が、7月9日に死去しました。
88歳でした。
ミケンズ氏は1930年7月26日生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。
UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)在学中にブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)とマイナー契約を結びました。
1953年7月、メジャーに昇格、ジャッキー・ロビンソン、ギル・ホッジスらのの大選手をバックに、4試合に登板したものの0勝1敗と成績を残せず、7月末に再びマイナーへ降格。
以降、一度もメジャーに昇格することはありませんでした。
1959年に近鉄バファロー(当時)に入団しました。
スリークォーターからカーブ、シュート、スライダーなど多彩な変化球を繰り出し、先発として活躍しました。
この時期の近鉄は、1958年から5年連続最下位という低迷期で、1959年は39勝91敗に終わったが、ミケンズ氏はチームの勝ち星の4分の1以上に当たる11勝(13敗)を挙げました。
1960年も13勝10敗とチームの勝ち頭になり、オールスター戦にも選出され、第3戦(後楽園)に先発、巨人の長嶋茂雄選手、王貞治選手、中日の森徹選手らセ・リーグの強力打線を相手に3回1安打無失点の好投を見せ、勝利投手になりました。
1961年は味方の援護に恵まれず5勝11敗に終わるも、防御率は2.42、2年連続でオールスター戦に選ばれ、3回無失点と好投しました。
同年の近鉄は、プロ野球史上最悪の103敗、史上唯一の3桁黒星という壊滅的なチーム状態でした。
以降も2桁勝利はなかったが、1963年まで主力投手として活躍しました。
1963年8月21日の南海戦(日生)で同点の9回表1アウト一、三塁で登板すると、バディ・ピート選手に対して初球を打たせて遊ゴロ併殺打に仕留めてピンチを断ち切ると、そのウラに近鉄は1アウト満塁で代打・島田光二選手のセカンドゴロを南海・森下整鎮選手が失策、近鉄がサヨナラ勝ちし、ミケンズ氏は1球で勝利投手になりました。
1球勝利投手は今年のロッテVS楽天の開幕戦(3月29日)でロッテ・酒居知史投手が記録するなど、これまで42人が記録しているが、ミケンズ氏の記録が日本プロ野球史上初で、珍しい記録として大いに話題になりました。
ミケンズ氏はこの年限りで近鉄を退団、米国に帰国しました。
アメリカ大リーグでの通算成績は4試合登板、0勝1敗、防御率11.37。
日本プロ野球の通算成績は169試合登板、45勝51敗、防御率2.54、オールスター戦出場2回。
引退後は1989年まで母校のUCLAでコーチを務めました。
かつての猛牛戦士が、この世を去りました。