今日で阪神淡路大震災から25年になる。
地震発生当日1/17の午前5:46
私は長男を出産し、退院して実家で迎える最初の朝だった。
(長男生後9日目)
ゴォォーーーという不気味な地鳴りと共に、段々揺れ始め、古い実家がミシミシと音がして倒壊するのではないか⁉️という位のすごい揺れで、
和室に布団を敷き、長男に添い寝していた私は、タンスから長男を守る為、とっさに長男の上に覆いかぶさった。
動けないくらい揺れ、すごく長い時間揺れていた。
母は朝刊の配達に自転車で行っていたので、大丈夫か?一瞬頭によぎったが、1階から母が私の名前を大声で叫んでいた。
揺れが収まり、長男を毛布にくるんで1階に降りようとしたら、古い襖のドアはガタついて開きづらく、塗り壁は剥がれ、階段手すりは取れ、1階の食器棚の上の荷物が落ちていた。
揺れる方向と反対に置いていたから、散乱は免れた。
すぐに浴槽に水を張った。(水の貯水の為)
水道水からは茶色の水が出た。
スーパー開店と同時に、母に紙おむつとミルクを買ってきてもらうよう頼んだ。
幸い、実家は一番酷い被災地より離れていたので、スーパーの赤ちゃん用品は、被害の大きいな地域に送る為、買えなかった。
私は、母乳が出ていたのと、布オムツを使っていたのだが、TVが地震の凄まじさや被害を流したり、ずっと続く余震に、不安とショックで、段々母乳が出なくなった。
(この頃は、まだ心の病にはなっていない)
今でもTVの映像で覚えているのは、高速道路が倒れ、あちこちで火災が発生し、戦後の焼け野原のようになっていた事。
私の遅い青春時代を過ごした神戸が、ぐちゃぐちゃにになってしまった事。
涙が出た…。
長男の同級生で、地震の日に生まれた子の母(ママ友)は、私が出産した個人病院だったのだが、被災地からの妊婦を受入れる為、通常1週間入院できるところを、回復が順調であれば、数日で退院しなければいけなかったそう。
実家は、ライフラインが止まらなかったので、物質面では大丈夫だった。
被災地に近い、同じく出産した友人は、母乳が出なくなり、ライフラインも止まり、好意で工場の水道水が出る所から、水をもらい、ミルクを作ったそう。
当時、陸上自衛隊だった叔父は、救助活動をした。
地震発生から日が経つ毎に、ご遺体がある場所は臭いで判るようになり、
倒壊した瓦礫の下には、子供、母親、父親と、子供を守る為に折り重なるように亡くなっている姿もあったという。
職務から解放され、自宅にやっと戻れた叔父は、食事も喉を通らず、自衛隊の力不足を実感し、悲惨な状況を目の当たりにして、鬱状態に陥った。
被災地でボランティアをされた人々も、心にダメージを受けた方が多かった。
阪神淡路大震災から、「心のケア」が大切だと、今に生かされている。
ボランティア、救援物資の要求、役所職員の動き等、たくさんのことが今に生かされている。
父は理容師なので、重いものを持つと、手が震えてハサミが定まらないから、私達が赤ちゃんの頃は抱っこはしなかったと母が言っていたが、初孫の長男を毛布に包んで、余震が続く中、ずっと抱っこして座っていた。
これには、母も驚いていた。
地震発生当日、主人は夜勤で会社におり、電話が不通(当時携帯電話は普及して無かった)で、
やっと連絡取れたら、我が家は物一つ動いてなく無事だった(被災地より更に離れている)
義理弟夫婦宅は、揺れと同じ方向に食器棚を置いていたので、食器が全部飛び出して割れた。
姑はボロ屋に未婚の一番下の弟と同居していた。
ボロ屋も義家族も無事。
主人は「お母ちゃんが心配やから、実家にずっとおるわ。」と言い、私は実家にいて両親もいるから心配ないと、一度も私の実家に来なかった。
両親がいても、やはり主人が側にいるのとは、また安心感が違うのに、やっぱりお母ちゃんが一番なんやな…と悲しかった。
同居未婚の弟は頼りない、というのが主人と姑の見方だから。
また大きな地震があったら、姑のボロ屋は潰れるかもしれないから、産後1か月実家にいる予定の私は、
うちのマンションにいた方が安心だから、と、姑と弟を住まわせた。
産後1か月で我が家に帰ると、リビングが散らかり放題、ゴミだらけだった。
(姑は掃除はしない)
その頃は私の地域は落ち着いていたので、姑も家に帰ると思いきや、主人は夜勤もあるし、初めての子供だから、私の手助けに数ヶ月いた。
姑は目が見えにくいのと、70歳超えていたので、
あやしたり、洗濯物干したり入れたり、お風呂に入れてくれたり、実際助かったけど、
やはり、気を使う。
しかも、庭に出て、隣の人が気に入らない事をすると、聞こえるように文句を言う。
隣の人が、たまたま助産師で子育てに専念していたので、母乳マッサージによく来てくださった。
私は大変有難いのに、何が気に入らないのか、帰られた後で文句タラタラ……
(義理姉にそっくりな性格)
料理嫌いな私は、姑と義理弟分の料理を三食作るのが、一番負担だった。
そして、ある日突然、「ちょっと帰ってくるわ」と言ったのが、
もう家に帰るという意味だったようで、
❓❓❓❓が多いが、ホッとしたのを思い出す。
すいません、最後は愚痴になってしまいました。
長男の誕生日を迎える度、阪神淡路大震災から○年経つんだな、と当時を思い出す。
しっかり災害に対する備えもしないといけない。
ペットの分も



全ての災害で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。
合掌