本日は大好きなうなぎのお話だ。
まず、本日取り上げる浦和(現埼玉県さいたま市)で、少し昔の地図から何故良質なうなぎが獲れるのかが判るので紐解いていこう。
1894年明治27年
我が日本が、朝鮮王国の八方美人政策に翻弄されて騙され、朝鮮出兵から清国と衝突し、近代国家としての初めての国家間での全面戦争を始めた年。
この時の地図がまともなもので、最も古いのでいつも使っている。
まずは少し全体を俯瞰するところから。
当時の地図や人口分布を見て見ると、南関東では人口も今の1/500ほどであり、人が居住していた地域は極端に少なく、街と言えるほど発展していたのは、石岡、土浦、水海道(現常総)、古河、熊谷、松山(現東松山)、忍(現行田)、児玉、秩父、飯能、練馬、王子、板橋、長嶋(現東葛西)くらいで、あとは田畑や野山が拡がり、人もまばらにしか住んでいなかったようだ。
そして、都市と言えるほどのものはホンの僅かであり、
●東京(当時の東京市で≠23区)
●堀江(東葛飾)(現浦安)ネズミーランドのあるところ
●野田
●春日部
●岩槻
●浦和
●川越
●八王子
●横浜
くらいしか無かった様だ。その中でも、東京は別格として、野田、川越、八王子、横浜が東京に次いで巨大都市への発展を始めていたようだ。
は?何言っているの?とお思いの方もおられるだろう。
世田谷は原生林に覆われ、川崎ですらほとんど人が住んでいない圧倒的な未開林に覆われていた時代。辛うじて千葉や大宮に人が集まり始めてこれから街になりそうだ、という時代。
流石に利根川は更に数百年前に流路を変えられ、銚子から太平洋に注いでいたが、河川改修は今ほど進んでおらず、現在の多くの川が当時考えられないほど曲がりくねっていたことが判る。
著作権の関係上古い地図は、まま載せられないので、恒例の必殺手書きで、浦和をとりあげて解説してみたい。
東京湾の川口、荒川や利根川など数千本の川が東京湾へ注ぎ込んでいた訳だが、それらの巨大河川が運んだ土砂は東京湾に流れ込み、その浦になっていたところは特有の遠浅により、土質環境上最適なビオトープになっていた。
そこには中仙道3番目の宿場町がつくられ、浦和宿と言われた。
腕を挙げたお手製地図。
1894年の浦和見沼地区。
黒字は当時の地名:赤字は現在の地名を示す。
こちらは浦和の北側部分だが、太い線で川を描いていたのでお判りの通り、渋谷のように谷戸が数多くあり、そこに川も存在していた。元々すべて海だった場所なので、高低差は殆どないもののこの地区ではあまり人も住まず、開発は近年になってようやくと言った状況であった。
折角作ったので掲載したが、今回のお話はもう少し南側のお話になるので、地図作り直し。
利根川や荒川などの巨大な河川が豊富なミネラル分を含んだ土砂を大量に東京湾に流し込み、広大な関東平野が出来た。その土壌は泥沢状でミネラル分も多く含んでいた為、この地に遡上してくる「うなぎ」は、脂がのって極上の味であると昔から評判でだった。
これも1894年当時の地図をトレース(慣れてきたので、時間もかけずにできるようになりました)したものだが、無数の河川が少し太めに描いた「中悪水」に注いでいる。「中悪水」というからには相応な暴れ川だったに違いない。左には中仙道(現国道17号)と浦和宿、そして東北本線を示している。
地名で興味深いのが、大谷口や広谷戸など、地形そのままの地名もあり興味深い。
また、大田窪、大谷塲や小谷塲など、現在では太田窪・大谷場・小谷場と違う感じでの表記に変わっているなど興味深い。きっと大谷口から見た原風景は、拡がる巨大な谷を大谷として、そこへの出入りが行われた場所なのであろう。
大田窪は、江戸時代の天保八年皆済目録に代官が村名を書く際、書き誤り、それ以降太田窪と誤記のまま使用されている。
明花(みょうばな)には、アイヌの遺跡があり、明花地区を中心に北西を見て見ると何らかの足跡に見えることから、この明花の足跡を、『ダイダラボッチの足跡』という様になって、それが訛って変化して、ダイタクボになったそうだ。
レッズの本拠として有名な駒場サッカー場の場所は、地図上谷戸の入り口辺りにある。
ところで、左に細い青線で記載している川は、現在埼玉県川口市南部、東京都足立区鹿浜辺りで荒川に注いでいる1級河川であり、藤右衛門川と名付けられている。経緯は調べていないので不明だが、この川こそ『谷田川』と呼ばれた川であり、恐らくこの谷田川が、「中悪水」ほど暴れ川では無かった為に、早くから新田が開発され、谷戸に作られた田を意味する谷田になったのではないか、と推定できる。
この『谷田川』に遡上してきたうなぎは、他の箇所のうなぎと異なり、細く過酷な小川の遡上を強行していることからか、更に脂がのり、極上の味であると全国的に評判となった。
そして、1300年代、世界で初めて蒲焼としてうなぎを調理したそうだ。つまり、浦和はうなぎの蒲焼の発祥の地、という訳だ。但し、他の県にも自称発祥の地を名乗る場所があり、どれも確証は無い。だが浦和の蒲焼は古くは1300年の文献に記録としても残しており、水掛け論争は、空中戦状態だ。
それは兎も角、谷田川のうなぎは、江戸期に全国で有名となった。
徳川将軍家だけでなく、紀州徳川の殿様もわざわざ谷田川のうなぎを食べに、参勤交代で中仙道を経由した記録が残る。
中でも江戸時代から続く老舗うなぎ割烹の『山崎』は、昭和天皇、平成天皇、今上天皇と3代に続いて献上調理されており、特に昭和天皇は、山崎を食べたいといつもご所望だったことで、天皇家とのゆかりも深い。
昔住んでいた家の近所にもうなぎ谷田川太田窪というのがあった。
懐かしい。
ちなみにこの谷田川(藤右衛門川)であるが、現在でも極上のうなぎが僅かに獲れるそうだ。
漁業券の購入も必要で詳細はさいたま市庁舎に問い合わせしてもらいたい。
そんなうなぎ蒲焼発祥の地の割烹『谷田川』に電話して同行者分含め、極上うな重を6個テイクアウト・・・多分うなぎ自体ははるばる九州の志布志などから来ているのだと思う。
でかい。柔らかい。とろけそう。これは美味い。
昔ながらの製法で一切の添加物を使わずに調理するその手法の為か何とも言えない。
極上の幸せ。
価格は高くもなく、うなぎ料理としては中堅価格だ。それも良い。
この値段でこのお味はお勧めせざるを得ない。
美味しいモノヲタクな私もこれは手放しに称賛せざるを得ない
あずなぶる的「うなぎ」ランキング
★★★★★【静岡】SHUN
★★★★☆【池袋】かぶと
★★★★☆【八王子】たかせ
★★★★☆【浜松】浜名湖漁協
★★★☆☆【川越】小川菊
★★★☆☆【浜松舘山寺♨】志ぶき本店
★★★☆☆【川越】いちのや
★★☆☆☆【船橋】なる瀬
★★☆☆☆【川越】林
そして今回味わった谷田川のうなぎは、
★★★★★【浦和】谷田川
となってあずなぶる的堂々ランキング1位になりました!パフパフパフパフ
6個だと💰もビックだけどそれなりの見返り十二分
やっぱりうなぎ料理発祥の地は強い❕
ふるさと納税で結構お世話になっている九州は志布志のうなぎを、まだ現地で食べたことが無い