「背水の陣」 | Model world

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素晴らしい模型の世界に魅せられました。

本日も皆さまの為を目指す閑話休題の時間。

最近キングダムを見始め、シーズン1からシーズン5の13話まで3倍速で辿ってきた。

マイブームは中国古代史。

 

史実からすれば名もなき武将が些細な戦で大げさに戦っている感は否めないが、それがまた面白い。だから人気があるのだ。

 

キングダム主役の李信

調べても調べても確証が薄いものばかりで、既に事実を追うことは不可能だろう。

 

その李信が、恐らく天寿を全うしたのであれば、その子どもたちと同じ時代に、『国士無双』と表現された世界史上屈指の天才武将が活躍したのを、齢(よわい)50歳くらいで見ていたはずだ。

 

『軍神』

『背水の陣』

『国士無双』

『四面楚歌』

『韓信匍匐』

『強行突破』

『捲土重来』を来す

『破釜沈船』

『乾坤一擲』

『敗軍の将、兵を語らず』

  :

 

聞いたことのある熟語、など誰もが一つは知っているだろう。

 

特に『国士無双』はその武将を指し示す代名詞なのだが、後日麻雀のヤクにもなったことで、知っている人も多いはず。

 

これらの故事成語は、全て一人の武将が生み出した。

 

そう、淮陰侯『韓信』だ。

 

 

『四面楚歌』は、日本の中学校の国語の教科書にも出てくるから知っている人は多いだろう。

 

だが意外に知られていないのは、『背水の陣』だ。

 

漢軍:3万(地理的不利)

vs

趙軍:20万(地理的有利)

 

この記事をお読みの皆さまが当時を生きた士卒であれば、どちら側の士卒でありたいかだけを見ても一目瞭然だ。しかも漢軍は、粗末な軍装。趙軍は、装甲武装している士卒が多い。

 

では簡単にではあるが、『背水の陣』を故事成語として生み出した史実を辿ってみよう。

 

 

 井陘口の戦い

 

転戦を重ね、疲労困憊の『漢』の軍勢3万は、『趙』を攻める為に、石家荘へ侵攻して来た。

 

『趙』王「趙歇」は、将軍「陳余」に20万もの精鋭を与え、「李牧」の遺子「李左車」に実質的に指揮させた。

 

名将「李牧」の戦いを目の前で見てきた「李左車」は、攻めてくる『漢』軍の情報を集めた。

 

攻めてくるのは、聞いたことの無い無名の将「韓信」。

しかも兵力は全くの寡兵である3万人で、その殆どの兵士はろくに武具すら着けていない民兵が主体とのこと。しかも『代』で徴兵されたばかりの訓練されていない北国兵士ばかりだ。

 

それに指揮している「韓信」は、故郷で何でも人の言うことを聞いて、ガキ大将の股くぐりまでさせられた弱虫で、戦略戦術に到底優れているとは思われなかった。しかも、「韓信」は、無理やり攻撃に向かわされ、殲滅されるのをとても恐れている、とのこと。

 

「李左車」は、それを「韓信」の間者が流している噂であることも理解していた。

 

しかしどう考えても、武装も中途半端な民兵主体の3万の兵が、完全武装の20万の軍勢に立ち向かうこと自体無謀だとしか思えなかった。頭の中で何度もシミュレーションしても、お味方が破れるところが想定できなかった。

しかも、図における戦場概略図の「A」の地点を通ってくるという。

 

「A」は井陘口(せいけいこう)と呼ばれる間道で、騎馬が並んで通るのがやっとほどの狭さの隘路だ。

 

もし、完璧な勝利を得るのであれば・・・

 

「李左車」は祖父「李牧」であったらどう手を打つか考えた。

念には念をと結論付け、抜け道を伝い、「A」の井陘口の後ろから『漢』軍を攻撃し、「B」地点で待ち伏せして殲滅すれば全滅させられるだろう、そう考えた。

 

だが、『趙』の将軍「陳余」はその攻撃を許さなかった。

 

大軍20万を擁する完全武装の『趙』軍が、粗末な武装の寡兵3万を策を以て破る、という結末が美しくない、という拘りからだった。

 

こともあろうに「李左車」でさえ、そりゃそうだ、と考えた様だ。「李牧」が存命であれば、同じことを考えたであろう。

 

多くの間者を放って自らが弱虫であることを流言飛語させた「韓信」は、この「A」の井陘口を抜けて「B」の地点に出れば必ず勝利するであろうと確信し、「B」に出る手前で全軍を休ませ、副将の「張耳」や「曹参(三国時代の曹操の先祖)」と共に朝食を採り、「昼には祝杯を挙げよう」と言ったそうだ。

もう一度戦場を見てみよう。

「C」の位置には、『趙』の軍勢20万がいて、「B」の手前で3万の軍勢が昼には祝杯を挙げる、と御大将に言われても、顔を見合わせて笑うしかなかった。つまり味方の諸将にも「韓信」は信用されていなかった。

 

「韓信」は、「B」の所へ出る前に、約2,000名の精鋭を分け、策を言づけて作戦行動の為に別働させた。

 

「韓信」は、井陘の河を渡り、陣をひいた。

河を渡ったところに布陣した「韓信」2万8千の『漢』軍。

「C」の地点で渡河する様を見ていた『趙』の兵士たちは目が点だったという。

 

兵法で、川を背にして陣をひくのは最もおろかなことで、絶対に避けなければならないものだったからだ。

 

『趙』の士卒は、『漢』軍を指さして笑ったという。

あとは、全軍突撃して『漢』軍を殲滅するだけ。

 

必ず勝てる、と「李左車」でも思ったそうだ。

 

将軍「陳余」はゆっくりと腕を振り下ろして『趙』軍全員突撃を命じたと記録されている。戦術もくそも無かった。

 

 

 

 

 

2時間後、「韓信」の前に連れて来られた「陳余」「李左車」はまるで夢を見ているかの様で自分の置かれた状態を自分自身で納得できなかった。

 

キングダムを理解する方の言葉を借りれば、李牧軍が、尾平軍に破れるほどの衝撃。

 

井陘という河を背にした陣をひいた「韓信」に破れた「陳余」「李左車」は、3,000年に1度した目にすることが出来ない名将「韓信」をどう見ただろうか。

 

世界史上、総大将が囮となった戦闘は、記録上これが初めてだそうだ。

 

 

総大将「韓信」は、20万もの大軍を2万8千で受け止め、木っ端みじんに撃破されて川べり迄退却するも、川に阻まれて逃げ道がない。しかもそこは凹地であり、完全に退路が遮断された状態であった。「韓信」は踵を返し、味方に「死ね」「生きる気力のあるものは戦え」と督戦したが、死に物狂いで戦う『漢』の民兵を殲滅するのはとても難儀であった。余裕だったはずの『趙』軍は、後方から崩壊が始まり、前線の兵士までもが逃げ出した。逃げる20万の軍勢は、2万8千もあれば十分殲滅できた。

 

『漢』軍の別動隊つまりこの場合本隊2,000が、ほぼ空城となっていた城を陥とし、城に大量の『漢』の旗を建て、趙王「趙歇」を斬首した。

 

守るべく芯である国王が亡くなった『趙』軍は、我先に逃げ出した。

 

春秋戦国の武将は数百年間戦争し、やっと始皇帝「嬴政」によって統一された中国だったが、「韓信」という漢(おとこ)は、元の国々に独立した「魏」「趙」「代」「燕」「斉」という王国を、僅か数か月で殲滅即撃滅してしまった。

 

この戦績は、いにしえの『燕』の将軍「楽毅」以上であり、「白起」や「孫武」「孫嬪」「呉起」なども到底及ばぬ当に電光石火の偉業であった。「李牧」など足下に及ばず尚更だ。

 

この後、滎陽城で『漢』軍と『楚』軍の対陣に帰参しなかった「韓信」だったが、滎陽城を中心に東西に分け合おうということで和睦した「劉邦」と「項籍(羽)」。

 

余談:そこで活躍する『漢』の武将「紀信(きしん)」があずなぶるは大好きだ。写真家の故「篠山道信(みちのぶ)」氏も、あずなぶると同じ「紀信(きしん)」好きだったそうだ。

 

和睦成立で東西に引き上げていく軍勢だったが、「劉邦」の『漢』の軍勢が、退却していく『楚』軍を後方から急襲し、『楚』軍が総崩れとなる。

 

「項籍(羽)」ですらどうにもできなかった。

 

『垓下』で「韓信」軍30万に包囲された「項籍(羽)」は、東西南北全ての方角から聴こえてくる故郷『楚』の唄を聴き、故郷『楚』が占領されたと勘違いし、驚き嘆く。そして自らの負けを悟った。この『楚』の唄を歌わせたのは「劉邦」であると言われているが、「陳平」「韓信」「張良」のいずれかであった、との説も存在する。

 

「虞や虞や、汝を如何せん」

 

愛する虞美人を宝刀で切り捨てます。泣けてきます・・・

 

無論、「劉邦」にそんな知恵があるとは思えないことから、あずなぶる的には「韓信」「張良」のいずれかの策であったに思う。これが『四面皆楚歌す』である。

 

『強行突破』の語源である凄まじい重囲突破を試みた「項籍(羽)」は、28騎ばかりに討ち減らされながらも長江のほとりまでたどり着き、船に乗って早く南へ渡れ、という土民の手招きを断り、その場で自刎して果てた。

 

これら土民が嘆いたことで『捲土重来』の故事成語が生まれている。

 

本日は「韓信」の有名な故事成語である「 背水の陣 」の史実を解説した。

受験生を抱える方が見ていたら、是非ご当人に「司馬遷」編著『史記』を読んでもらいたい。

 

受験国語で必要な四字熟語の半数がこれで学べる。

はず。

 

では。