貴重な体験 (その1) | Model world

Model world

素晴らしい模型の世界に魅せられました。

【貴重な体験シリーズ 第1段】

 

いくつかの同じような経験と被ることも申ことながら、既に20年以上も前の話になる為、正直記憶が曖昧だ。


だが可能な限り曖昧なものは排除し、現存するデジタル動画の記録を頼りに当時私が貴重な体験をしたことを辿ってみた。



1998年12月15日
午前4時
その年の夏はとても暑く、観測史上最高気温だった筈だ。
だからなのか、吐く息もそう白くなく、大袈裟な厚着もしないですむ程度の朝であった。

曇り空だから月明かりも無く、住宅地の街灯だけが周りを照らしていた静寂の中、ミッドシップスポーツのエンジンスイッチをオンにして、アクセルをそっと吹かす。

マフラーから迷惑な爆音を極力出さぬよう、タコメータには最新の注意を払って住宅街を後にした。

首都高速から幕張を抜け、成田方面へと抜けていく道程は、日中の半分以下の時間で通り過ぎることができる。

長い1日の始まりであった。



午前7時
当時始まったばかりのサービスだったインターネットサイト予約を事前に行い、民間駐車場に駐車する。
送迎マイクロバスに乗り込んで成田空港第2ターミナルに到着した時間がこの時間だ。

フライトは10時発。


それまでの時間は、どうやって過ごしたのか覚えていないが、朝食をいただこうと思っていたところ、どの店も未だ開いていなかったためマクドナルドんのモーニングで済ませたと思う。

そして、ここの記憶こそが曖昧だが、間違えなければ駐機場所まで滑走路上をバスで移動したはずだ。

乗り込んだのはスターアライアンスグループ筆頭会社で世界最大の航空会社「ルフトハンザ航空」のB747-400。


今はできないANAのマイルが溜められたが、コードシェア便ではない。



午前10時
いつものことだがテイクオフ後の記憶は無い。多分離陸前に寝落ちしている筈だ。
機内サービスの映画も何を放映していたか覚えていないが、既にエコノミークラスでもルフトハンザは前席背もたれの部分に液晶モニターを取り付けていた。だが睡魔には勝てなかった、ということだ。
離陸後の朝食も手を付けることはなかったと思う。

当時は円高不況と言われており、1ドル約70~80円という時代だった。国内滞在型旅行へ行くよりも、ヨーロッパ旅行の方が一方的に安かった時代だ。更にモスクワやフランクフルトなど、巨大なハブ空港をトランジットで乗り継いでいく時間的無駄がある行程であれば更に安くなるのだ。

今は逆転しているが、当時の国内都市部のホテルは1泊2~3万円ほどが主流だったが、ヨーロッパの5つ星ホテルでも8~9千円程度。とてもでは無いが国内旅行へ行く気にはなれなかった。
長引く日銀の金利政策により、今では国内旅行はし易くなってきたのが幸い。

成田を飛び立った飛行機は真北へ向かい、樺太、シベリア、北極を抜け、上空からはっきりとバルト3国が認識できる場所を通りながらキール、ベルリン上空をゆっくりと高度を落としながら飛行していく。



現地時間午後4時頃
トランジットの為、フランクフルト国際空港へ降り立つ。
次のフライトまでは3時間ある。

そこで事前に全く予定していなかったのだが、急遽ゲートを出て、2時間30分以内のプチ旅行をすることにした。
フランクフルト・アム・マイン観光でも良いのだが、折角なので少し冒険をすることにした。

赤く金色JAPAN刻字の世界最強の印籠は、全く予定していなくともスムースにドイツに入国できる。
以前の記事でも取り上げたが、シュプレヘン・ジー・ドイッチュ?(和訳:あなたはドイツ語を話せますか?)とハルク・ホーガンみたいな入国管理官に間違えて訊いてしまい、大爆笑されたのはこの時の話だ。
このマッチョな入国管理官と笑顔でやりとりし、最寄りの駅の場所を教えてもらう。

空港の外へ出るといきなりわんさか寄ってくるブルカを纏った高齢女性物乞い。
ドイツにはトルコから流れてくる方が多いとは聞いていたが、本当に多かった。

空港駅へ駆け込み、どこ行きの列車かも確認しないで駆け込み乗車をする。
こういう冒険好き。

乗ったのは勿論各駅停車だ。
乗ってから行先を確認して、適当に降りて観光して空港に戻ればいいや、という感覚だった。
もしかしたらルクセンブルクとかまで行けるかなとも思ったが、流石にそれは無理で、20分くらい乗車してマインツで下車した。

マインツはとても美しい街。
ディズニーリゾートなんか足元に及ばない本物のおしゃれな街。おしゃれな路。


基本的に有名観光地ではないので、いるのは現地のドイツ人のみ。外国人は珍しいのか視線を多く感じた。
それでもクリスマスシーズンに突入していく街中をウィンドウショッピングしながら中心に聳えるドーム(大聖堂)まで足を運ぶ。中の見学をしたが、すでにこの時点で暗くなりつつあった。


午後5時の鐘の音を聴いた。
後から聞いた話だが、マインツドームの鐘の音は、世界中の教会の鐘の中で最も美しい音と評されているものの1つだそうだ。グーテンベルクの活版印刷博物館もぐるっと回っただけだが十二分に観光することができたので大満足。



現地時間午後6時くらい
マインツという街は、日本で言えば人が多く往来する釧路や小倉、呉、茨木、佐倉、所沢、小田原という感じで、駅のホームは当に釧路駅(ほど大きくないが)のようなとても寂しい感じだ。

さて戻ろう、そう思ってマインツ駅の時刻表を確認し、顔面蒼白。
心臓が止まる程驚いたのが、午後7時フライトに間に合う各駅停車の列車がない、ということだった。

日本の感覚でダイヤが組まれていることは無いことは当然理解していたが、ドイツで最も人口の多い都市部である。まさか1時間に1本程度、人口500万人都市の駅を結ぶ各駅停車の列車でも、この時間にこの程度の感覚の運行になるなど誰が思うだろう。

ホーム上には人がほとんど居ないのだ。



飛行機が行ってしまったら仕方ない、という半ば諦め感もあったが、運良くもフランクフルト方面に向かう列車が遠めに私のいるホームに向かってくるのが見えた。ピンと閃き、最後の手段を使うしかない、そう決心した。

近づいてきたのはIC(イツェ:特急)だ。
運よくICに乗れたが、完全貸し切り。
誰も乗っていない。

事前に特急券を買っていなければ罰金で何倍かの金額を払わなければいけないことも理解していたが、飛行機代をダブルで支払うより当然マシなので、罰金覚悟で乗車したのだ。

IC本来のスピードを出すことも無く、各駅20分のところを対して変わらぬ時間をかけてフランクフルト国際空港駅に到着。トランジットギリギリセーフで出発ロビーへ。何とか間に合った。



現地時間翌午前0時くらい
着陸態勢に入った飛行機の窓の外。
暗闇の中に浮かぶオレンジ色の明かりに統一された宝石の様に美しい街の光は、初めて訪れるローマ帝国2,000年の首都、コンスタンティノープルだ。

あらためて申し上げるが、現地時間午前0時ほどの到着だ。ドイツ現地時間では午後10時ほどで、日本時間では翌16日の早朝未明。空港で入国審査を終えてラウンジへ出ると、もの凄い人が多く、この国の活気なのだろうかと最初勘違いをしていた。

久しぶりな中近東近く。

当時、サダム・フセイン イラク大統領に対してJブッシュ大統領が、所有する大量破壊兵器を全て申告しろ、と期限を設けていたのだが、ちょうどその期限を迎えていた日だった。

空港内は軍の特殊部隊っぽい者が大勢集まっており、完全武装の兵士も一般の空港内で大勢が待機しており、恐らくは輸送機でそのまま東へ向かうのであろう。兎に角、きな臭い雰囲気だったのは一瞬で理解した。それでも兵士たちは、いじられ役の小柄な兵士を「いじめ」だろうと思えるようなからかいをしていたり、何かのツボに入ったのか笑いが止まらなくなって転げまわっていたりする者もいた。



1998年12月16日
現地時間午前2時
空港の喧騒を他所に、深夜タクシーを走らせ、オレンジ色にライトアップされた世界最強の城壁「トラヤヌスの城壁」が目前に迫ってくる。その城壁を抜け、本物の「バザール」前の5つ星ホテル、プレジデンタルホテルに到着した。この1泊は無駄とも思えるほどだが折角なので大そうなベッドの上で仮眠した。

後で知ったのだが、このプレジデンタルホテルの最上階スイートルームには、アガサ・クリスティという作家が長期宿泊しており、その部屋の中で、有名な「オリエント急行殺人事件」という小説を執筆したそうだ。いつか読もうと思っていたが今に至っても実現していない。



現地時間午前4時
携帯のアラームを鳴動させたのだが全く気付かず爆睡しており、フロントにモーニングコールをお願いしておいたのは正解だった。何とか起床して、朝食の代わりになるトーストセットをもらい、元来た空港への道を戻っていく。

始発のアンカラ行の飛行機に乗って、いざ東方へ。



現地時間午前8時頃
アンカラ到着後、主たる箇所の観光だけにして、お昼には中距離バスに乗車していたと思う。

荒野の中猛スピードで南方へ飛ばすダイムラーのフル規格のバス。
ちょっとハンドル操作誤ったら即死だな、と恐怖におびえながらも300kmの旅を一向に変わらぬ一般道の車窓を眺めながら進んだ。一番前の席に座った私から見えるバスの運転席のデジタルスピードメータは95km/hを差していた。

途中天空の鏡として有名な世界絶景ポイントの1つ、「トゥズ湖」に寄り、更に進み「アクサライ」で西に折れ、「コンヤ」へ向かう。

車内が騒然としてきたのは、トゥズ湖を出立した後のことであった。

「コンヤ」にはアメリカ軍の駐留基地があり、対ロシア最南のNATO主要基地になっていた。
バスからは基地がどこにあるかの認識はできなかったが、荒野に点々と置いてある軍用車両が見えてきた。

どこからともなく誰かがそれはアメリカ軍のパトリオット迎撃ミサイルであることを解説してくれた。
(私にはそれが本当かどうかは判断できない)

軍用車両に見とれていたのか、懸念していた事故を先行して起こしたバスが路肩で大破しているところに差し掛かった。怪我人も多く出ている。どうするのだろうと思ったが、既にレスキューコールしている、ということで、その場を通り過ぎることになったが、彼らは大丈夫だったのだろうか。



現地時間午後7時頃
話は戻り、到着したコンヤの街。

スンニ派穏健派のメフレビー教団の所在で世界的に有名だ。

尖塔がトルコ石で出来ている(日本で例えれば、小さな五重塔がエメラルドで出来ていると同じほど希少な意味)メブラーナ博物館のあるところだ。

 

だが、アフガニスタンや、イラクでの力によるイスラム抑え込みに不満を持つ原理主義者(後日彼らはアルカイーダやISISなどになっていく)が多く集まる街でもあった。


大変危険な街であることは承知していた。
 

それでも街中を一通り観光。ラマダン直前の日でもあったと思うが、たまたま皆陽気なお祭り気分でもあったと思う。そこに水を差すように急に配備が進んだパトリオット。

その日はコンヤの格安ホテルに宿泊(3,000円しなかったと思う)したが、テレビを付けてもトルキスタンは解らない。

しかし民族的には我らと同じウラルアルタイ語族で、つまり日本人と同胞だ。

昔中国東北部に居た、『契丹』という国がトルコ系だ。今ではオルドスに広大な自治区を構えるトルコ系ウィグル族が、新疆ウィグル自治区を構成する。

【中国共産党政権下で集団虐殺が進む現在のウィグル】

 

見た目はギリシャ人との混血が進んでまるでヨーロッパ人の様に見えてしまうのは、歴史的に2,000年間ローマ帝国の本拠地だったからであろう。

 

トルコ語の語彙を置き換えればほぼ日本人には話が通じることから、観光客相手に日本語を話せる人が比較的多い国だ。ホテルにはほぼネイティブ日本語を話せる方がいた。

国連総会でイラクを相手に国連軍が組織できず、というところまでは出国前に理解していたが、話を聴くとコンヤの基地にはイギリス空軍も入っており、ここコンヤで多国籍軍を編成したそうだ。

いつ攻撃が始まってもおかしくない、ということで日中のパトリオットの配備に繋がったのだろう。そう理解した。

前日までは配備されていなかったことも確認できた。

しばらくの後。
喧騒を他所に聞こえてくる大規模な数の航空機の離陸音。

それらは旅客機の音ではないことが直ぐ理解できるほど、うるさく大きかった。
後から知ったが、この時を以て第2次湾岸戦争が始まり、ここコンヤのNATO基地が中心となって、バグダートの攻撃を開始したそうだ。

問題はここからだ。

空襲警報が鳴り響き、住民たちが慌てふためく様子が客室から見える。
 

格安ホテルからの案内は何も無かったが、ロビーで訊くとテレビの緊急放送で、フセインがコンヤに向かって弾道ミサイル「スカッド」を発射した、とのことであった。

この時、ようやく自分が戦争に巻き込まれていることを唐突に理解した。


結局この弾道ミサイル「スカッド」は、エルサレムに向けて発射されたそうで、同じくパトリオットによって迎撃されたそうだが、発射の瞬間はどこへ飛ぶか判らないのだろう。


その夜の夢は、自らの立ち位置に落下してくるミサイルにうなされたことを覚えている。




つづく?














 

# トルコ編
# イスラエル編
# シリア編
# レバノン編
 
# モロッコ編