戦時中、知覧基地に慰問に訪れた 淡谷 のり子 さん

 

その時のお話を、いつぞやの徹子の部屋で語っておられました。

 

聴きたい曲をお尋ねになった淡谷さんに対し、あどけなさが残る17~18歳ほどの青年たちがリクエストした曲が分かれのブルース。

 

彼女は熱唱し終えると、『思い残すことは無い』、『覚悟はできた』など、涙ながらに礼を申す兵士たちに対し、まるで自分が唄った歌のせいで特攻に送り出してしまったのでは、という罪の意識に苛まれたという・・・。

びっくりして何も言えなかった、と仰ってたかと思います。

 

翌日窓から飛び立った機影を見てしまい、彼らが前日別れのブルースを聴いていた子らだった、という事実に涙したそうです。

 

さぞお辛い経験だったことでしょう。

 

特攻を肯定するものではありませんが、そうすることが最も効果的な戦果を出すことが止まれぬ命令に繋がり多くの命を奪っていった、その事実から目を背けてはいけないと思います。

 

 

 

先の大戦で、多くの軍歌を世に送り出した 古関 裕而 は、終戦後自身の軍歌によって失われた命を嘆き、その重責と絶望から作曲が出来なくなり、お酒に溺れていき廃人のようになりました。

 

 

それでも周囲に説得され、同郷福島県の 伊藤 久男 が熱唱した『栄冠は君に輝く』という名曲中の名曲を作曲することになります。古関が前を向こうと思った想いが込められた素晴らしい曲です。

 

その誕生秘話にも涙したものですが、淡谷のり子さんの壮絶な経験は、それ以上に胸に刺さります。

 

 

 

ということで暫くの間❓ブログは休止となります。

 

複雑に折れているそうです。

今救急外来から戻りましたが、来週手術が必要だそうです。

マジか・・・