1:72 ハセガワ(旧キット)

帝國陸軍 中島飛行機 四式戦闘機『疾風』

 

本日の記事は久しぶりなのでてんこ盛りです。

 

私が参考にさせていただいているサイトはこちら。

 

 

その前に・・・

本日職場で偉い人に訊いた話です。

 

三菱A6M Zero Type 21

言わずと知れた大日本帝國海軍のゼロ戦21型の形式番号です。

 

先日私が作った赤城の艦載機等がそれにあたります。

「白い」機体に、赤と黄色のマーク。そして青色の差し色。「白い」機体にトリコロールの色が使われています。青は防錆や航空灯のことです。

 

そして制式な形式番号 A6M Zero ですが、teznoさんに教えていただいた通り、

 

 AM6 Zero は、ア(A)ム(M)ロ(6)・レイ(ゼロ)

 

だったんですね。

アムロ・レイは零式艦上戦闘機の形式番号からとられている名称だそうです。

この話、有名な話なのかしら。

 

しかも21型は、白い機体にトリコロール。

偶然の代物ではなさそうです。

 

そして、救国の英雄たる大日本帝國海軍の後期主力戦闘機、川西飛行機の紫電改。

旧日本海軍の局地戦闘機「紫電改」が初飛行-1942.12.27 大戦後は零戦並みに有名へ | 乗りものニュース

私はまだこの紫電改の全容を知りません。

帝國海軍パイロットが評価する最も性能の良かった戦闘機。

 

そして、この機体に赤い色の機体はありませんでしたが・・・

 

 紫電改=シデン・カイ

 

つまり、カイ・シデンなのだそうです。

皆さんご存じでしたか❓

 

アムロ・レイ=零式艦上戦闘機

カイ・シデン=紫電改

 

小林たけしの陸軍撃墜王『疾風』という歴史群像シリーズ。兎に角疾風に憧れた者がいたようだ、と。

 

ここから命名の由来になるのが、

 

小林疾風=コバヤシ・ハヤテ

 

となるのだが、忘れてはいけない大日本帝國陸海軍の代表的な戦闘機。

 

そう一式戦闘機『隼』です。

恐らく命名者は、陸軍は海軍程戦局に寄与していない、と判断したのか、一式と四式をごちゃ混ぜて、

 

コバヤシ・ハヤト

 

としたそうです。

 

つまり、機動戦士ガンダムに出てくるメインメカキャラ、ガンダム、ガンキャノン、ガンタンクのパイロットは、帝國陸海軍の代表的な戦闘機、

 

・零式艦上戦闘機

・紫電改

・隼

・疾風

 

から命名されているのだ。

 

ちなみに、何度か本ブログでも触れており、既に有名な話ですが、冨野翁はシャンソンが大好きで、セクスィー・メンズスィンガーの、シャール・アズナブルの大ファンでした。

 

 

 

 

 

さて、帝國陸軍四式戦闘機『疾風』です。ハヤト・コバヤシの由来だったなんて。

 

美しい金属色ですが、実際はアルミ合金になるので、どちらかと言うとつや消しになるはずですね。

まずは、クリアも乾いた頃を見計らってケープを全体に塗布しました。

それから機体下部に明灰色を塗布し、また一旦1日乾燥させます。

 

次はマスキングをして機体上部をオリーブドラブで塗布します。

これまた一旦1日乾燥させます。

今回はデカールを遣わず、塗装で色々表現をしてみたいと思います。

 

そして楽しみなのはハゲチョロです。

既に機体側面でケープを厚塗した所は剥離が始まってます。

 

劣悪な環境で酷使された機体。

楽しみです。

 

 

ところで、今回の機体も実在の機体をモデルにします。ここからは私にとっても衝撃の理解でした。

 

辛いですね。実態を知ってしまうと。

疾風のパイロットだった方をご先祖に持たれる方はかなり多いはずです。

 

悲しい話を知ることになりましたので、少しだけ考察したいと思いますショボーン

 

大日本帝國陸軍 埼玉縣 所澤基地 帝都防衛部隊 第73戦隊

 

再現機体の始まりは、あき先生の住まわれているご近所からでした。

 

1944年9月に創立されたこの第73戦隊ですが、10月には埼玉県の所沢飛行場に配備されました。

 

しかし、創立されて直ぐにフィリピンに迫るアメリカ軍の侵攻を防ぐ為にルソン島に転戦することになります。

 

10月20日、ルソン島南部レイテ島に上陸を開始したアメリカ軍は、航空母艦艦載機(ハルゼーの機動部隊ですね)の支援のもとに着々と橋頭保を築きつつありました。

 

その様な中ルソン島に到着した各疾風の部隊は、直ぐにレイテ島西にあるネグロス島への進出命令を受けることになります。

 

しかし、栗田艦隊レイテ湾突入予定前日(10月24日)に開始されたレイテ航空総攻撃には、そのほとんどが間に合いませんでした。ネグロス島には、一式、三式などを中心に既に200機以上が展開していましたが、こちらもその殆どが間に合わなかったようです。

 

部品不良、材質不良、燃料不良によって稼働率が極端に低く、部品不足、にわか飛行場の劣悪な環境下での運用など、大規模な航空攻撃を行えるような状況ではなかったのです。

    
ネグロス島に進出した陸軍戦闘機部隊はバゴロド基地に根拠地を置き、タリサイ、シライ、サラビア、マナプラ、ファブリカなど同島北部に造成されたにわか飛行場群に機種別に分散配備されましたが、通信機器の不備、爆撃の激化などにより基地間の相互連絡もままならない状態だったそうです。

フィリピン航空戦に投入された疾風を装備した戦隊は次の通りとなります。

■ 第16飛行団:
 飛行第51戦隊、52戦隊
 

■ 第12飛行団:
 飛行第22戦隊、1戦隊、11戦隊
 

第21飛行団
 飛行第71戦隊、72戦隊、73戦隊
 

■ 飛行第200戦隊 (6個中隊編成)

急速に消耗した飛行第1戦隊、11戦隊は戦力回復のため本土帰還の後、12月に再進出してきます。

 

緒戦に出遅れた疾風部隊は暫時ネグロス島へ集結、10月末までに6個戦隊が揃いますが、その間、急速に整備されたタクロバン、ドラッグなどのレイテ島飛行場には米陸軍のP-38、B-24が続々と進出し、ネグロス島基地群への爆撃も激化し始めます。

 

整備器具・部品不足による稼働率低下や急造滑走路での運用に苦しみながらも、疾風部隊はレイテ島地上軍支援、数次に渡るオルモック湾への陸兵輸送船団護衛、敵飛行場攻撃などに連日出撃して粘り強く戦い、11月中旬頃までは数に勝る米陸軍航空隊を相手に一進一退の制空権争いを展開します。しかし必死の奮戦も空しく敵航空兵力は増加の一途を辿り、さらに神出鬼没の空母艦載機群の跳梁跋扈に加え、海兵隊戦闘機部隊も進出するに至り、帝國陸軍とアメリカ軍の戦力差は開く一方となりました。

少し横道にそれますが、アメリカ軍は四式「疾風」がフィリピンに進出しているとは考えておらず、最後まで二式「鍾馗」と勘違いしていた様です。

そして12月15日、米軍のミンドロ島上陸によってルソン島の制空権は完全に失われ、クラーク基地やマニラ周辺の飛行場は連日敵機の猛攻に晒されるようになります。翌昭和20年1月9日の米軍リンガエン湾上陸時、比島陸軍「第4航空軍」の可動機はわずか30機という惨状で、陸軍戦闘機を統括する第30戦闘飛行集団は残された疾風で特攻隊「精華隊」を編成してリンガエン湾の米艦艇に最後の突撃を敢行、残存操縦者・整備員は台湾への脱出のためルソン島北部へ移動を開始します。一方、取り残された航空基地要員の多くはクラーク基地防衛「建武兵団」などに編入され、過酷な地上戦へと突入していきました。

陸軍は少数機出撃を繰り返して敗北したニューギニアでの戦訓を取り入れ、レイテ航空戦に当たっては、200機以上の「疾風」をネグロス島の複数基地に分散配備して集中運用する構想を立てていました。速度・上昇力に優れ、防弾性も高かった「疾風」はP-38、F6Fとも互角に戦える機体でしたし、燃料も現ベトナムからの92オクタン価が充てられていたようです。しかし結果は、大編隊による出撃は一度も実現できずに終焉を迎えることとなりました。

 

ネグロス島進出前に台湾沖航空戦やルソン島での空戦によってすでに幾つかの戦隊が戦力ダウンしていたこと、荒れた滑走路での無理な運用、整備の難しい「誉45」発動機と電動式プロペラ、輸送船海没による整備器具・部品の欠乏、操縦者・整備員の疲弊、風土病の蔓延、などなど様々な要因が重なったわけですが、最大の敗因は操縦者の経験・練度不足にあったのだと思います。前線配備を急ぐあまり、飛行時間100時間レベルの未熟な操縦者を大量に送り込まざるを得なかった事情は、日本陸海軍航空隊の窮状を体現していたのではないでしょうか。

 

 
 
終戦翌年の1946年春、ペンシルベニア州の空に飛行第11戦隊の「疾風」が舞い上がりました。ルソン島クラーク基地に放置されていた機体を米軍が修復、テスト飛行が行われたのです。140オクタン価ガソリン、良質潤滑油を積み、米国製点火プラグを装備して飛んだ「疾風」は最高時速 689km (高度6000m)を計測、操縦性でもP-51D、P-47に勝ると高く評価されました。

 

第二次世界大戦最高傑作機の呼び声が高いP-51Dですが、敵国の航空機である疾風をその上とアメリカ軍が判断していることはいくつかの文献で確認ができます。

 

事実関係を少し調べてみたいと思います。

 

いずれにしても、フィリピン航空戦を劣悪な環境下で高性能な疾風を駆った帝國陸軍は、大変よく善戦しましたが最後は数で推し切られて壊滅しました。

 

 

 

模型再現は、次の部隊に所属した機体になります。

 

1944年12月14日

ルソン島マバラカット東基地所属

第21飛行団 第73戦隊 第327号機 清水 博 少尉 乗機

 

大空に飛び立つことなく、無念にも地上で力尽きた当機の表現になります。

 

 

フィリピン航空戦で亡くなられた大変多くの御魂に哀悼の意を表したいと思います。

 

戦闘詳報概略:

飛行第73戦隊/戦闘機隊(威第18431)
配備機:一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)
 
昭和19年5月、明野飛行学校北伊勢文教所で編成された。
斜め三本線の戦隊マークは隊員で画家の山本鶴丘氏がデザインした。
19年9月、所沢へ移駐し防空任務につく。12月、比島派遣命令により
マバラカット東へ前進。特攻機掩護、ミンドロ島サンホセ攻撃に出撃するなど
戦闘を重ねたが、20年1月、第30戦闘飛行集団長の命令で
特攻隊が編成され、元オリンピック選手の吉田喜一少尉ら3名が散華した。
 
第二十一飛行団隷下。
編成/昭和19年9月17日柏原
19年9月埼玉県所沢に移駐。
12月14日ルソン島マバラカット東飛行場に展開、
ルソン島航空作戦に参加、航空機全機損耗。
20年3月オロラに移動。
4月10日オロラ残留者臨時歩兵第二十五大隊に編入。
5月30日オロラにおいて復帰。
南方残置隊は20年9月2日戦闘停止、収容所に入る。 
  
戦隊長:三隈 輝男 少佐
 

 

 

では。

お休みなさい😴💤