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天皇の政治関与:『内奏―天皇と政治の近現代』(後藤致人著、中公新書、2010年)をご紹介します
http://suinikki.blog.jp/archives/63325552.html

今回は、『内奏―天皇と政治の近現代』を皆様にご紹介したいと思います。

新書にしては、こなれていなくて少し読みにくい本ですが、内容は大変充実しており、日本の近現代史に興味がある人にとっては、「そう、そこを知りたかったんだよ」という、かゆいところに手が届く本です。

この本の中身を中心にお話を進めたいと思います。

昭和10年代から敗戦までの歴史に関する本を読むと、重大な事件や決定の際に政府の責任者(総理大臣や各国務大臣)、軍の責任者(陸軍の参謀総長や海軍の軍令部総長[長く軍令部長])が天皇に報告するシーンが出てきます。

この時に、天皇から厳しく追及され、脂汗を流す、頭を上げられないということがありました。

一方、近衛文麿は、天皇から椅子を勧められ、それに足を組みながら座り、政治について語ったという話もあります。

明治憲法(大日本帝国憲法)においては、天皇は主権者として、天皇大権と呼ばれる、国を統治し、軍を統帥する権限を持っていました。

そして、この権限の行使の際には、国を統治する場合には、各国務大臣の輔弼(ほひつ)、軍の統帥の場合には、参謀総長と軍令部総長の輔翼(ほよく)を必要としました。

天皇に何かを申し上げることを「奏」と言い、これに関する言葉は、上奏、奏上、密奏、内奏やそのほか様々な言葉があります。

明治憲法下、国務大臣や参謀総長、軍令部総長がそれぞれの職務に関して決定を行い、それを天皇に報告し、天皇がそれを認める(裁可する)という流れの中で、天皇に報告することを「上奏」ということで統一され、制度化されたのは、1907年の「公式令」が制定されてからだということです。

この上奏に関しては、天皇は「ご下問」という、質問で内容を確認したり、婉曲的、間接的にですが、「内容を再検討してみたら」「反対だ」という意思を伝えたり出来ました。

戦争直前、このご下問対策に陸軍、海軍は頭を悩ませたということです。
 
有名な話では、日米開戦直前、参謀総長の杉山元が「日米開戦になった場合に、どれくらいで作戦を完遂するのか」という昭和天皇のご下問に対して、「太平洋は3か月で作戦を終了する見込みです」と答えました。

そうすると昭和天皇は、「お前は陸軍大臣だったとき、支那は、2ヶ月程度で片付くと言ったが、支那事変は現在も終わっていないでないか」と厳しく問い詰められました。

杉山が「支那は奥地が開けており、予定通り作戦がいかなかったのであります」と苦し紛れに答え、昭和天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はもっと広い。いかなる成算があって3ヵ月と申すのか」と厳しく叱責し、杉山は汗をかきながら、頭を下げているしかなかったというものがあります。

昭和天皇は厳しいご下問で、矛盾や過度の楽観を厳しく突く人物であったそうです。

この上奏については、戦前から戦中にかけてさまざまなドラマが展開されました。

内閣が倒れたこともありました。

張作霖爆殺について、当時の田中儀一首相が天皇に「奏聞(報告)」することになっていました。

これは「上奏(報告し、裁可を受ける)」とは異なる点に注意が必要です。

この時、宮中では、最初に田中首相が示した陸軍の厳罰方針と異なる場合(軽い処分)には、認めない内容の「お言葉」を出して良いのかを研究し、その内容のお言葉を田中首相に与えることになりました。

田中首相が「奏聞」のために参内し、昭和天皇に拝謁し、張作霖爆殺事件処理について行政処分で済ませることを報告すると、昭和天皇は以前の報告と内容が違うとして、報告を打ち切らせました。

田中首相には「事件処理があまりに杜撰だ」という昭和天皇の意思が伝えられ、田中首相は内閣総辞職を決意しました。

この時、昭和天皇は、これが田中首相の「上奏」だと考えており、「合理的な理由もなく、正式な(裁可を必要とする)上奏で前回と違うことを言うとは何事か」として、会見を打ち切ったとのことです。

一方、田中首相にしてみれば、非公式の(裁可を必要としない)奏聞のつもりであったのですが、天皇に叱責されたことで内閣不信任だと考えて総辞職となりました。

どうもこの上奏やら奏聞、内奏、奏上と言った言葉がはっきりした定義が共有されて使用されていなかったために、戦前から戦中にかけて、誤解や混乱を招くこともあったようです。

1945年8月15日に昭和天皇の玉音放送が流れ、9月2日に東京湾の戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書に調印が行われました。

ここから1947年に日本国憲法が制定されるまで、昭和天皇は積極的に政治に関与します。

この時はまだ明治憲法下ですから、憲法違反ということではありません。

著者の後藤致人氏は、この時期は「天皇親政的色彩」が強い時期であったと述べています。

1947年5月3日年に、大日本帝国憲法日本国憲法に改正された形で施行となり、上奏という制度はなくなりました。

しかし、昭和天皇は、内奏という形で、国務大臣などが報告に来ることは残すように要望しました。

この内奏と同時に行われるご下問やお言葉については法的な根拠が曖昧で、天皇の政治関与(天皇執政)と考えられますが、「天皇の国情への理解を深める」ためのもので国事行為には当たらないということになっています。

しかし、1947年7月には当時の外相・芦田均(首相は社会党の片山哲)が宮中からの要請を受けて外交問題についての内奏を行いました(芦田は日本国憲法制定に深くかかわったので、この内奏が天皇政治関与にあたるのではないかという疑念を持っていました)。

この時、米ソ関係の悪化を受けて、「日本の外交は日米関係を基調とすべき」とする「お言葉」があったと芦田は日記で書いています。

また、1947年9月には、沖縄メッセージ(米軍による沖縄の長期占領と日本の主権確認を求めるメッセージ)をアメリカ側に送りました。

こうした天皇の姿は、日本国憲法下の象徴天皇の姿からは外れたものと言えます。

片山内閣の後に成立した芦田内閣では、

「①天皇不執政の徹底のために閣僚による内奏の廃止、

②戦前・戦後の宮中の違いをはっきりさせるため、宮内府長官・侍従長という宮中首脳の同時交代による人事刷新、

③道義的責任として天皇大意を求める」

と言う方針を打ち出しました。

これに対して、昭和天皇は抵抗しました。

芦田内閣が短命であったために、これらの方針が徹底されることはありませんでした。

次の吉田茂内閣(第二次)では芦田内閣の方針は破棄されました。

吉田内閣の次の鳩山一郎内閣では、閣僚による内奏が復活しました。

岸信介内閣では、都道府県知事の内奏が行われるようになりました。

一方で、岸信介は天皇軽視の態度もみられ、宮中側には不満が残りました。

たとえば、都道府県の知事の内奏では、天皇の日程を変更させると言ったことが起こりました。

また、鳩山一郎の大勲位授与に関して、岸が内奏を行わないで、単なる伝奏で済ませようとしたことに関しては、昭和天皇が不満を漏らしたとそうです。

岸とは対照的に、昭和天皇(そして当時の皇太子・現在の今上天皇)と良好な関係を築いたのは、岸の弟の佐藤栄作でした。

昭和天皇と佐藤栄作の関係は「君臣情義」と呼ぶべきものでした。

佐藤栄作は様々なことを天皇に内奏し、天皇もそれを熱心に聞き、お言葉もあったということです。

佐藤栄作は沖縄の施政権の返還を実現しますが、これがなった時に思い浮かんだのは、自分が昭和天皇にこれを内奏する姿でした。

やはり親しみを持ってよく顔を出す人に親近感を持つのは人間の情として自然なことなのでしょう。

田中角栄内閣の時に、閣僚(増原恵吉防衛庁長官)が内奏の中身と天皇のお言葉をマスコミに話してしまう、内奏漏洩事件が起きました。

第二次吉田内閣以降、内奏の中身を他に漏らしてはいけないということが不文律になっていました。

内奏を終えた増原長官は、つい内容を漏洩してしまいました。

その結果、内奏は政治的なものではないことが改めて確認されました。

1980年代以降になると、政治家たちの昭和天皇に対する畏怖の念が低下していきました。

日本国憲法化の象徴天皇ということが政治家たちの意識の中に浸透していった時代と言えます。

1989年に昭和天皇が崩御し、今上天皇が即位しました。

今上天皇で特徴的なことは、日本国憲法を強く意識していることです。

折に触れて、日本国憲法や第二次世界大戦・太平洋戦争についての発言を行っています。

これは昭和天皇には見られなかったことです。

今上天皇になっても内奏は続けられています。

今上天皇は日本国憲法下で即位した初めての天皇で、昭和天皇のように、天皇大権があった明治憲法下の天皇の職務を体験していません。

そういう意味では、新しい形の象徴天皇としての姿を模索し、それを実行していると言えます。

この本『内奏』では、天皇の政治関与ということがテーマとなっています。

明治憲法下では、天皇の政治関与が制度として組み込まれていたのですから当然行われていました。

日本国憲法下では、象徴天皇と天皇不執政の原則から、政治関与は公的にはなくなりました。

しかし、昭和天皇は、内奏を残すことで、政治とのかかわりは保ち続けました。

占領下では天皇不執政の原則を越えての発言もあったようです。

その後、日本国憲法が定着していく中で、政治家側の温度や態度で、天皇との距離感の違いが出てきました。

そして、現在では、とても「ドライな」関係になっているようです。

この天皇と政治の距離感はある意味で絶妙なものであると言えるでしょう。

天皇と皇室の存在を国民の多くが認めている現在、この距離感が大きく変わることはないでしょう。 
 
この文章は2016年7月11日に書いたものです。

書評ですし、内容から考えて、そんなに急がなくてもよいかなと思っていました。

しかし、2016年7月13日夜に、NHKが今上天皇の生前退位の移行について報道し、共同通信や他のメディアも後追いの形で報道しました。

『内奏』のテーマは天皇の政治関与ですから、一気にこの本のテーマがホットな話題になりました。

今回のケースでは、「天皇の地位から退きたい」という今上天皇の意向があるということが報道されました。

現在の日本国憲法では天皇の地位と国事行為については規定がありますが、皇位の継承については、皇室典範によると書かれています。

皇室典範には、天皇の生前退位に関する規定がありません。

皇室典範は明治時代に制定され、昭和24年に改正された法律ですが、最後に天皇の生前退位があったのは1817年ですから、明治時代に皇室典範を作った時も、生前退位を想定されていなかったということになります。

また、皇族の規定としては、皇太后(崩御した前天皇の皇后)はありますが、退位した天皇(おそらく大上天皇、上皇)については書かれていません。

ですから、今のままでは天皇は即位すれば、崩御するまで天皇でいなければならないということになります。

病気などで公務が出来ない場合には、摂政をおくことが出来ます。

昭和天皇も父大正天皇の健康状態が悪くなって、摂政宮となりました。

今上天皇が健康や年齢を理由に「退位したい」と考えて、ごく親しい人たちに話をするのは、人間として当然のことですが、それが表向きになると、途端に政治とからんでしまいます。

私は今回、この報道を聞いて、「国事行為に天皇が自身の地位について話をするということがないが、これは逸脱行為、政治関与になる可能性はないのだろうか?」と、『内奏』を読んだばかりでしたので、考えてしまいました。

もちろん、内奏で国務大臣や三権の長などに会う際に、政治的な意見を言い、それが影響するということになると、明らかな政治関与ですが、この場合にはそれに当たりません。

しかし、国民的な議論というか、関心を集めるという点では、どの政治家も無視することはできないものです。

その点では、政治関与とは言えないが、政治に大きな影響を与えるものとなったと言うことはできます。

更に言うと、天皇には政治利用という側面もあります。

つまり、天皇の意向だということで自分の主張や意見を押し通すということです。

現在ではそのようなことは制度上はできませんし、政治利用を防ぐためにも内奏の中身を外に漏らすことはできません。

しかし、今回の天皇退位の意向が、単に周囲に対して、「体もきついし、公務で間違うこともあるから、公務を皇太子に引き継いでもらうためにも、引退したい」と私的に述べたことが、外に漏れることで、大きな影響を与えることは明らかですから、問題は、誰が主体となってこのリークが行われたのかということを知ることが重要です。

今上天皇が改憲の動きを阻止するために自ら意見のリークを認めた、

ということも考えられますし、

改憲派が日本国憲法擁護派の今上天皇を退位させようとした、

もしくは

皇室典範改正(現在のままでは皇太子が存在しなくなりますし、女性天皇の是非も問題になります)から改憲(天皇に関する条項の変更)へとつなげて、国民を国民投票や改憲に慣れさせるということも考えられます。

天皇は日本では政治的な権威を失いましたが(君臨すれども統治せずの立憲君主制)、それでもやはり大きな存在なのだということを再認識した、という方は多いと思います。

(終わり)











「政治の世界では、偶然におこる事件など、何一つない。もし何か事件がおこったとすれば、それはそうなるように周到に計画され、仕組まれたことなのだ。」
http://route4osor.exblog.jp/23029590/  


フランクリン・D・ルーズベルトの有名な言葉なのだが、要するに、真珠湾攻撃もオレたちが仕組んだと言っているのだ。


ルーズベルトは当事大統領だった。


オレの分析では当時日本の海軍に、山本五十六を筆頭に米軍と内通するやつらがいて、談合の上でやったのが真珠湾攻撃だった。


その見返りに、戦後の極東軍事裁判で“協力者”の多かった海軍からは、誰一人としてA級戦犯を食らっていない。


海軍同士でやり合った、『太平洋戦争』でしたよね?






天皇陛下、戦争を止めるための最終手段 2