クラシックカメラでフィルム写真

クラシックカメラでフィルム写真

フィルム写真を趣味のクラシックカメラで楽しんでいます。レンジファインダーカメラ、スプリングカメラ、一眼レフカメラ、それぞれの個性やオールドレンズの持ち味に興味があります。


デジカメに比べてフィルムカメラの手間や不便さは数え上げればキリがありません 
それでも好きなんですね 
デジカメのように写りすぎないところがいいのかな 
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源平一ノ谷の合戦~義経「逆落とし」の謎

平安時代の終焉を決定づけた一ノ谷の合戦の真相は・・・

 

この戦を象徴するのが源義経によるとされる「逆落とし(さかおとし)」ですが、じつはその場所には諸説があり義経ではなかったという異説まであります。

 

一ノ谷の合戦で義経が自軍を本隊と奇襲部隊に分けたことは間違い無さそうですが、進軍のルートや義経のいわゆる「逆落とし」などその前後の行動については研究者や郷土史家の間でも諸説があります。(「坂落とし」が誇張されて「逆落とし」に変化したようです)

今回のブログ記事の一番の目的はこれらの諸説に私なりの解釈を加えるということです。

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私は歴史の専門家でも研究者でもありません。

ただ、幼少期から青年期までを須磨区一ノ谷のすぐ近くで過ごし義経の逆落としには関心がありました。小学生のころでした。一ノ谷へ降りていく細い階段を見つけてそこを降りると、谷底のあたりから向かい側の斜面に小径が見えました。その小径を登って行くと丘の上は小さな台地になっていて、何軒かの民家と小さな児童公園、電話ボックス、安徳帝内裏跡というものもあって驚きました。木立に囲まれて何も見えていなかったので。

何やらタイムスリップして異空間に迷い込んだような不思議な感覚でした。

 

そこから鉄拐山(てっかいさん)という裏山への登り口があることはのちに知りました。

私の小学校の校歌にも出てくるなじみ深い山です。気が向くと家から近いルートでこの山に登って、わりあい平坦な尾根筋を西は須磨浦公園の鉢伏山、東は須磨寺の裏山あたりまで散歩したものです。鉄拐山は「平家物語」に出てくる“一ノ谷のうしろの山”にあたるとする説があります。

 

従来の諸説に住民としての土地勘と多少の地理的知識を織り込んで私なりに「一ノ谷の合戦」を考えてみました。なにぶん素人の勝手な見解です。ご容赦ください。

 

安徳帝の内裏跡

一ノ谷段丘  安徳帝内裏跡

崖の上の狭い台地に内裏があったとは考えられませんが・・由来は不明です

 

 

 

一ノ谷の丘

右側にある住宅地が一ノ谷の丘の台地(安徳帝内裏跡のあるところ)

左側の白い集合住宅は谷の中に建っています

久しぶりに訪れて丘も谷の中も宅地開発が進んでいるのに驚きました

この絵からは義経の逆落としをイメージしにくいかもしれませんね

 

 

鉄拐山への登り口

一ノ谷段丘にある鉄拐山(てっかいさん)への登り口

 

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<一ノ谷の合戦の主な史料>

 「玉葉(ぎょくよう)」:公卿・藤原(九条)兼実が記した当時の日記

 「吾妻鏡(あづまかがみ)」:鎌倉幕府が編纂した歴史書

 「平家物語」:平家一門の栄枯盛衰を描いた軍記物語

 地域の伝承:ゆかりの地に伝わる伝承が多い

 

 

 

義経軍の行動

福原(神戸市)に陣を構えた平家に対して、源頼朝の命で木曽義仲を討伐して京にいた源範頼、源義経の軍勢に後白河法皇から平家追討の院宣が下ります(寿永三年一月二十九日)。

 

総大将の源範頼(のりより)は主力を率いて山陽道から福原の東の正面(生田口)へ、義経は搦手(からめて)隊として京から丹波へ迂回して西の裏手(一ノ谷口)から平家を攻める作戦です。

義経は寿永三年二月四日、播磨の三草山(兵庫県加東市)で待ち受ける平資盛らに夜襲をかけて勝利するとそこから南東へ向かい現在の小野市、三木市、神戸市北区山田町藍那(あいな)を通り平家の背後を目指します。

 

 

このルートは藍那古道とよばれ義経の道案内をしたとされる地元の猟師鷲尾三郎のゆかりの地です。さらに南へ進むと神戸電鉄藍那駅を少し過ぎたあたりに「相談ヶ辻」という義経が軍議を開き軍勢を二手に分けたとされる伝承地があります。

 

「吾妻鏡」によると、義経は三草山の戦いのあと「丹生山(たんじょうさん)」(神戸市北区山田町)などの要所を経て、軍勢を二手に分けて西の一ノ谷口は土肥実平(どいさねひら)が率いる一隊に任せ、義経率いる七十余騎は鵯越(ひよどりごえ)に向かい鹿、猪、狐の類しか通りえない獣道(けものみち)を経て平家の陣中を急襲したとある。

「平家物語」では土肥実平が垂水(神戸市西部)に抜け七日未明に一ノ谷口への攻撃を開始したとある。

 

つまり「吾妻鏡」も「平家物語」も義経が自軍を二手に分けて、自らは搦手(からめて)隊を率いて鵯越へ、もう一隊は土肥実平に任せて西の一ノ谷へ向かわせたという大筋は同じである。ただ、「平家物語」では ”一ノ谷のうしろ、鵯越ををとさむと” というまぎらわしい表現になっている。(現神戸市須磨区の一ノ谷と兵庫区と長田区の境あたりの鵯越は約8キロ離れている)

 

「玉葉」の記述はこれとは異なっています。

一ノ谷の合戦の翌日の戦場からの複数の飛脚による速報として

源範頼は生田口へ、義経は一ノ谷へ、多田行綱は鵯越へ

“多田行綱 山手より寄せ 最前に(真っ先に)山の手を落とさる” という記述

同時に、義経が搦手から攻め入り平家が海へ逃げたともある

奇襲をかけたのは義経ではなく多田行綱で、山の手を落としたとすれば鵯越から攻撃をしかけたことになります。

 

では、奇襲攻撃(いわゆる逆落とし)はどこで行われたのか

鵯越(現神戸市兵庫区~長田区)説と一ノ谷(須磨区)説があり結論は出ていません。

 

 

逆落とし 一ノ谷説

従来は一ノ谷説が有力で、この合戦を象徴する場所であること、「平家物語」に海辺にある場所として描かれていること、「吾妻鏡」などの地形的描写に合うことなどを根拠としている。

 

平敦盛と熊谷直実

義経隊にいた熊谷直実が平敦盛を討ち取ったのも須磨浦の古戦場とされており、敦盛の胴塚が須磨浦公園内に、首塚は須磨寺にある

 

 

 

****須磨寺****

 

 

須磨寺の山門

 

 

 

 

須磨寺の境内

 

 

 

 

 

平

平敦盛の首塚(須磨寺)

 

 

 

須磨寺正覚院 ニッケルエルマーで撮影

 

 

 

 

****須磨浦古戦場****

 

 

平敦盛の胴塚

平敦盛の胴塚

 

 

 

 

 

 

 

 

 

須磨浦古戦場

 

 

 

 

須磨浦古戦場の浜辺

古戦場の浜辺

 

 

 

逆落とし 鵯越説

何々越(ごえ)というのは特定の場所(地点)を指すのではなく「道」という意味なので鵯越もいうなれば鵯越道のこと。したがって諸史料にある義経が鵯越に向かったというのはすなわち鵯越(道)を進んだと解釈出来る。

 

逆落としの鵯越説では神戸市の北部(藍那あたり)から現兵庫区と長田区の境界付近に至る道から平家の山の手に攻め込んだ(逆落とし)ことになる。ここからさらに南下すれば平家の重要拠点大輪田の泊(とまり)(港)もある。鵯越説には義経が平家陣の中央突破を目論んだという見方もある。

 

鵯越の風景

写真の真中あたりの奥(北)から右(南)へ連なる尾根道が鵯越

 

 

 

神戸電鉄の風景

鵯越の南端

写真の神戸電鉄の上の尾根筋の右のほうから平地へ降りていく

 

 

鵯越説の疑問点

「吾妻鏡」では鵯越は鹿・猪・狐の類しか通りえない獣道(けものみち)としており、「平家物語」にも同様の記述がある。また「平家物語」では地元の猟師(鷲尾三郎)に道案内をさせている。

ところがこの鵯越のルートは地形的にそれほどの難所とは思われず、平野部に降りるところも崖というよりは比較的緩やかな坂道です。

そもそも獣道に“・・越”という名称を付けるでしょうか。時代は下りますが鵯越は慶長十年の古地図に兵庫津(大輪田の泊から発展した港)から内陸の藍那・三木方面へ通じる道として描かれている。

このルートにはどうしても須磨の一ノ谷ほどの意外性・奇襲性が感じられません。

 

逆落としの奇襲が平家をパニックに陥れこれがきっかけとなって、一ノ谷口から生田口にわたる東西10キロ余りに及ぶ戦場全体の帰趨を決したことはほぼ間違いないとされています。

はたしてここに数十騎で攻め込んでそこまでの効果を得られたでしょうか。

 

「平家物語」には山の手には源氏の襲撃に備えて平盛俊(もりとし)、平教経(のりつね)を派遣して怠りなかったとも書かれている。

義経が分け入った獣道に類する道はこの鵯越とは別の道だと思います。

 

現地の地理に詳しくない作者、編者がこの二つを混同したのではないか。

また「吾妻鏡」、「平家物語」ともに”一ノ谷のうしろが鵯越”とする記述があり、一ノ谷のうしろの山道(鉄拐山周辺)と鵯越を混同しているように思います。

 

仮に「玉葉」にあるように多田行綱がここから山の手を落としたとしても、それは奇襲とはいえない。また、鵯越はそれほど険しい道ではないにせよ細い山道であり、ここから大軍が押し寄せたとも考えにくい。

 

つまり山の手の戦いがあったとしても、それは平家側の度肝をぬくような想定外のものでも、全体の戦局を左右するような規模のものでもなかったのではないか。

 

この広範囲の合戦が「一ノ谷の合戦」といわれているのは、やはりひとえに一ノ谷の攻略が大きな意味を持つからだと思うのです。

 

 

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**私の考える一ノ谷の合戦**

 

 

私は基本的には一ノ谷説を支持しますが、「玉葉」の記述との矛盾点や鵯越と一ノ谷が地理的にどう認識されていたのかについても考えてみました(後述)。

 

要約すると

①    義経は神戸市北部の藍那あたりで軍を二手に分け、一隊は鵯越へ、もう一隊は一ノ谷へ向かった

②    鵯越に向かったのは多田行綱で山の手から攻め入った

(これは「玉葉」の記述のとおりです)

③    義経は一ノ谷へ向かった

④    義経は白川(須磨)を通り多井畑(たいのはた)あたりで自ら少数(70騎ほど「吾妻鏡」)の奇襲部隊を率いて一ノ谷の裏山(鉄拐山)へ

⑤本隊は土肥実平が率いて山の裏筋(後述)を通り塩屋付近へ抜けて海岸沿いに一ノ谷口正面へ向かった

⑥    義経は一ノ谷の裏山から逆落としで平家軍の背後を突き、一ノ谷口正面から攻める土肥実平の本隊との挟み撃ちとなった

 

 

義経の奇襲部隊の進路は、現在の須磨区高倉台あたりから一ノ谷の裏山の尾根筋にあがり、そのまま南西に進んで鉄拐山(てっかいさん)の山頂の下あたりから坂を下って一ノ谷の段丘へ。

そしてこの丘から谷へ逆落としをかけた。

 

そこは平家の一ノ谷口陣地の真後。まさに思いもよらぬところからの奇襲で、さらに一ノ谷口の正面から来る土肥実平率いる軍勢との挟み撃ちになります。

「平家物語」にある “もしやたすかると前の海へ多く馳せ入りける。一谷の汀(なぎさ)はあけ(朱)になってぞなみ伏したる” 有り様です。

 

 

国土地理院地図より作成

私の考える義経の進軍ルート

義経の搦手隊は相談ヶ辻あたりで多田行綱の一隊が鵯越から平家山の手へ(赤)、さらに多井畑あたりで義経の奇襲部隊が分かれて一ノ谷裏山へ(青)、土肥実平の一隊が塩屋付近から海岸沿いに一ノ谷正面へ向かった(黄緑)

 

 

 

 

源義経の進軍ルート

義経の軍勢は多井畑(神戸市須磨区)あたりで少数の奇襲部隊が一ノ谷の裏山(鉄拐山)へ

土肥実平率いる本隊は塩屋方面から海岸沿いに一ノ谷正面へ

 

 

 

 

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多井畑あたりから標高差100mほどの丘(おらが山)へあがると須磨山脈(鉄拐山、旗振山、鉢伏山)の平坦な尾根道となり、1kmほど行くと鉄拐山の頂上下に着きます

 

おらが山から鉢伏山

手前の「おらが山」(山頂に白い展望台)から「鉄拐山」、「旗振山」、「鉢伏山」まで稜線が連なっている

その手前にはかって「高倉山」があったが数十年前に取り崩されてその土はポートアイランドなどの造成に使われ、ここには高倉台団地が誕生した

 

 

鉄拐山遠望

鉄拐山を遠望する

 

 

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私が考える義経の進軍ルートを実際にたどってみます

 

 

おらが山から尾根道を鉄拐山へ向かいます

 

おらが山展望台から

おらが山の展望台より

ここから鉄拐山への尾根道に入っていきます

(中央の木立の中に見えているのが多井畑厄除八幡宮)

 

 

 

 

須磨山脈の尾根道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

須磨山脈の痩せ尾根

ちょっとした痩せ尾根

写っていませんが左側手前も急な崖になっています

 

 

 

尾根道からこの山脈の北側を望む

義経の奇襲部隊から一ノ谷へ向かう土肥実平の本隊が見えたかも知れませんね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

iphoneで撮影

おらが山~鉢伏山の中間地点

 

 

 

 

 

 

 

須磨山脈尾根道

 

 

 

 

 

鉄拐山の山頂下

iphoneで撮影

鉄拐山頂下に到着

 

 

 

鉄拐山の登り口

iphoneで撮影

 

 

 

 

尾根道から一ノ谷への分岐点

尾根筋から一ノ谷への分岐点

 

 

 

 

 

 

 

鉄拐山から一ノ谷の段丘へ坂道を下ります

 

 

一ノ谷への下り坂

 

 

 

 

                              iphoneで撮影

黒猫さんが道の真ん中で日向ぼっこしていた

私が近づいたので坂道を降りて行った(道の先のほう)

一ノ谷から上がって来ていたのでしょう

くつろいでいたのにかわいそうなことをしました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりは放置竹林化しつつあるようで気がかりです

 

 

 

一ノ谷の丘へ到着しました

 

 

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♦♦義経が軍勢を二手に分けたあと、さらに多井畑あたりで少数の奇襲部隊を分けた

  とするところは従来説には無い独自の見解ですので説明を加えます

 

義経が多井畑あたりで軍勢を二手に分けたと考えるそれなりの理由があります。

一ノ谷から西の塩屋あたりは山が海に迫っており古来交通の難所でした。

万葉集にも “荒磯越す 波を恐れみ淡路島 見ずや過ぎなむ ここだ近きを”

(荒れている波が打ち寄せて怖いので、近くに淡路島があるのに見ずに通り過ぎなければならないとは)

と詠まれているように、ここには海が荒れるような悪天候の時に備えてバイパス(裏道)があった。

その一つが多井畑ルートで、山陽道のバイパスとして須磨東部の多井畑峠から須磨山脈の裏側に入り多井畑から西進したのち川沿いに下って海岸(塩屋付近)に至るというもの。須磨山脈の裏を通って塩屋付近に抜けるルートです。

能や歌舞伎の演目にもなっている「松風・村雨」伝説は平安時代に多井畑に住む姉妹が多井畑峠を越えて須磨浜に汐汲みに行って在原行平(ありわらのゆきひら)に出会ったという物語ですが、多井畑と海辺を行き来する道があったことが伺えます。

 

それにしてもうら若き娘さんが重い汐桶をかついで峠を越えていたとは。義経の逆落としもそうですが、物語とはいえ昔の人がたくましく描かれていますね。

 

須磨の砂浜

 

鉢伏山の山裾が海に届くあたりは砂浜も無い

古来、山陽道の難所であった

現在はこの狭隘な地形にJR山陽本線、山陽電鉄、国道2号線がひしめいている

 

JR塩屋駅付近の国道2号線

JR塩屋駅の横を通る国道2号線

 

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****多井畑厄除八幡宮****

 

須磨の多井畑厄除八幡宮日本最古の厄除け神社として知られ、源義経が武運長久を祈願したという言い伝えがあります

平家との大一番を前にこの地に来たならばきっと参拝したのではないでしょうか

 

多井畑厄除八幡宮

 

多井畑厄神の石段

 

 

 

 

多井畑厄神の社殿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年、一月十八日から二十日までの三日間に厄除祭が執り行われ多くの参拝者で賑わいます


 

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*私の考え方に残るいくつかの疑問点について*

 

 

疑問点(一)

「平家物語」(延慶本。原型に近いとされる写本)には三草山で勝利したあと義経が軍勢を二手に分けたくだりで “六日の朝ぼのに、九郎御曹司、一万余騎を二手にわかって、まづ土肥次郎実平をば七千余騎で一ノ谷の西の手へつかわす。わが身は三千余騎で一ノ谷のうしろ、鵯越ををとさむと、丹波路より搦手にこそまはられけり(軍勢の数については過大と思われる)” という記述がある

また「吾妻鏡」にも“源九郎(義経)は七十余騎を率いて一ノ谷の後山(鵯越と号す)に着いた”と記述されている

 

一ノ谷と鵯越はまったく別の場所であり “一ノ谷のうしろ、鵯越” という記述が混乱を招くのですがこれについては次のように考えます。

 

◎「平家物語」の作者が現地の地理に疎く一ノ谷と鵯越の位置関係の認識を誤った

 (一ノ谷のうしろの山道と鵯越を混同している、など)

◎一ノ谷のうしろと鵯越の両方という意味

私は多田行綱の鵯越攻めと義経の一ノ谷逆落としという二つの出来事があったという考えですが、これを一つの出来事ととらえたために作者に混乱が生じた

◎「吾妻鏡」のこのくだりは「平家物語」を参考にしたと思われ、現地の地理に疎い編者が後の山(鉄拐山)を鵯越と勘違いした

 

 

疑問点(二)

須磨の一ノ谷は急峻で逆落としは不可能では

 

それでもなお一ノ谷の崖を本当に馬で降りられたのか、という疑問が残ります。

一ノ谷を馬で駆け下りるというのは非現実的です。馬といっても当時の馬(木曽馬など日本在来馬)は脚が短く(体高130cmほど)スタミナがあり足腰の強い馬だったようですが、それにしても20キロほどもある甲冑をまとった武者が乗っています。傾斜も急で雑木林です。枝が邪魔になり馬も灌木に脚をとられるでしょう。いずれにしろなんらかの「道」は絶対に必要です。

 

当時の馬(日本在来馬)の体高(首の付け根までの高さ)は130cmくらいとされ、平安末期頃の成年男子の平均身長の約160cmよりもおおよそ30cm低い ちなみに現在のサラブレッドの体高は160cm前後

 

ここに道は無かったのか。そう考えるとこの山地は当時からシイやカシなどの照葉樹林だったと考えられ、薪炭材をとるために人が定期的に入っていた可能性は十分にあります。このような里山ではむしろごく当たり前のことだったでしょう。定期的に薪炭材を刈って里山を管理していたのです。貴重な燃料源だったのですから。

「道」はあった可能性が高いと思います。小学生のころ一ノ谷の丘の斜面に見つけた細い坂道のイメージです。つづら折りの細い坂道です。

 

義経隊は藍那付近で地元の猟師に出会い道案内をさせていますが、満足な地図も無い時代に、まして当地の地理に不案内な関東の武士達が、通ったことのない山道を迷わずに進めるはずがありません。きっと行く先々で道案内を頼んだことでしょう。

 

推測ですが、多井畑あたりで一ノ谷や裏山の小道の情報を得たのではないでしょうか。

地元しか知らないような道の情報が無ければとても裏山からの奇襲など出来ないでしょう。

当初は一ノ谷口正面の攻略だけを想定していたのが、地元で情報を得て裏山からの奇襲を思いついたとも考えられます。

いずれにせよ勇気ある決断と実行力があればこそですが。

 

一ノ谷のつづら折りの坂道

一ノ谷 段丘の上から(一ノ谷西側斜面)

小学生のころ見つけたつづら折りの小径が谷底へ向かっている

立派な柵が施され坂道も拡幅されてかつての簡素な小径の面影は無い

左側の集合住宅も当時は無かった

 

 

一ノ谷 段丘の法面

 

 

 

一ノ谷段丘の海側斜面

この斜面は傾斜がかなりきつく、おそらく平家軍の陣地からも丸見えとなるので降りていく最中を狙われればかなり危ういと思います

 

「逆落とし」の場所は一ノ谷の西側斜面と推測します

 

 

疑問点(三)

鉄拐山から一ノ谷の段丘に降りてくる道の途中に痩せ尾根(両側が急な崖になっていて、幅がかなり狭い尾根)があり騎馬が通れたのか

 

六甲山系を覆っている花崗岩は風化がかなりすすんでおり、指で簡単に砕けるほどもろい。小学生のころ裏山に登って驚いたものです。斜面の崩落などの土砂災害も多く東西30キロの六甲山系には650余りもの砂防ダムがあるそうです。私も近年ハイキングでよく歩いた池の畔の道が一度の大雨で池に崩落し消滅していて驚いた経験があります。

「平家物語」にも逆落としの舞台となった現場の山肌について “小石まじりのすなご(砂子)なれば” との記述があるようです。すなご(砂子)は花崗岩が風化した真砂土だと思われます。

そうであれば前述の痩せ尾根も900年近くも前は今より幅のある尾根だったと考えられます。

 

鉄拐山の岩肌

一見硬そうな岩肌のようですが、表面は指でこするだけでボロボロと崩れます(鉄拐山)

 

 

 

須磨二ノ谷

二の谷(一ノ谷の西隣の谷)

鉢伏山の麓に土砂崩れの跡があります

右端は一ノ谷の段丘に登るクルマが通れる唯一の坂道です

写真では伝わりにくいですが勾配20%の激坂です

 

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*私の考え方のベース*

 

一ノ谷の合戦についての主な史料には「玉葉」、「吾妻鏡」、「平家物語」、各地の伝承などがありますがそれぞれ難点があります。

 

「玉葉」は同時代の公家(九条兼実)の日記で最も信頼性の高い一次史料ですが、日記であるがゆえに断片的な記録になります。「吾妻鏡」は後世に編纂された鎌倉幕府側の記録であり、編纂者の見方に偏りがあるともいわれています。また内容の異なる写本も多い。「平家物語」は作者不詳の軍記物で誇張も多く史料としての信頼性には疑問符がつきますが、当時の戦闘の模様などの具体的な記録がほかに無く、他の史料との整合性を考慮しながら傍証として用いればいいと思います。これも時代を経るに従い諸本がある。

 

「吾妻鏡」、「平家物語」ともに軍勢を二手に分けて、土肥実平に預けた一隊が西の一ノ谷口へ、義経は少数を率いて鵯越へ向かったという記述はありますが、いわゆる義経の「逆落とし」の場所が不明。一ノ谷との関係性も不明瞭。

また、「玉葉」では鵯越から平家の山の手を攻めたのは多田行綱と書かれている。

 

私の考え方は、史料としての信頼性が最も高いと考えられる「玉葉」をベースにして、「吾妻鏡」、「平家物語」の記述はその成り立ちを考慮しつつ利用し、地理的な条件などの現実性を重視して組み立ててみたものです。

こういうことも考えられるのではないか、その可能性を考えてみたものです。

 

なお、「神戸市史-別録(史料編)」、「新修神戸市史-歴史編2(中世)」はおおいに参考になりました。

 

 

【撮影機材】

NIKON  FA     nikkor  28mm   50mm

MINOLTA  CLE   biogon  28mm  M- rokkor  90mm

LEICA  Ⅱf  nikkor H.C  50mm

LEICA Ⅲ  elmar 50mm

フィルム  Kodak  Color Plus  200

                    FUJIFILM 400

(一部スマートフォン)

 

お気に入りのフィルムが製造中止のようで、フィルムの選択肢がますます狭まってきました

フィルム環境がなんとか維持されることを切に願っております

 

**補足**

 

▼▼一ノ谷の合戦にいたる経緯▼▼

 

平家一門の都落ちから一の谷の合戦へ

 

栄耀栄華を極めた平家一門は傍若無人な振る舞いの挙句に後白河法皇と決別し、公家社会の反発を招き地方武士(主に東国)の支持も失っていきました。また南都の焼き討ちで寺社勢力も敵に回しました。

 

治承4年(1180年)

反平家の機運の高まりのなかで後白河法皇の皇子(以仁王)が平家打倒の令旨を出し源頼朝の従弟にあたる木曽義仲が挙兵します。義仲は信濃国の平家方を掃討し北陸道へ進み倶利伽羅峠の戦いで平家軍に勝利し比叡山(延暦寺)も味方につけて京に迫ります。

治承5年(1181年)

平家の棟梁である平清盛が死去し一門は求心力を無くします

寿永2年(1183年)7月25日

勝ち目が無いと判断した平宗盛率いる平家一門は安徳天皇と三種の神器を奉じて京を脱出しましたが、事前に平家の動きを察知した後白河法皇は比叡山に逃れました。

 

都落ちした平家一門は大輪田の泊(現神戸市兵庫区)から海路で筑紫(九州)の大宰府へ向かいます。一旦大宰府入りしますが九州の武士団の支持を得られず早期に撤退し博多湾から海路で讃岐(香川県)の屋島を目指します。

 

寿永2年(1183年)10月後白河法皇宣旨

これに対し源頼朝は都を占拠して後白河法皇と対立していた木曽義仲を討伐して、平家も追討する見返りとして法皇から東国の支配権を公認され官軍の地位を得ます。

 

寿永3年(1184年)1月

頼朝が義仲への対応などで手をこまねいている間に平家は屋島や播磨以西の西国で勢力を蓄えて京の奪還を企て再び福原(現神戸市)へ進出します。

 

 

▼▼一ノ谷の合戦の両軍の勢力と平家の布陣について▼▼

 

☆源平両軍の勢力について

「平家物語(諸本)」

 平家軍 六万~十万騎

 源義経軍 一万騎

「吾妻鏡」

 平家軍 数万騎

 源範頼軍 五万六千騎

 源義経軍 三千~七千騎

「玉葉」

 源氏軍 範頼軍、義経軍それぞれ千~二千騎

 平家軍 二万騎

 

出典により大きなばらつきがありますが、全体に数が非常に多いのに驚きます。

「平家物語」は軍記ものとしての性格上全体に過大な表現ですが、とくに隆盛を極めた平家が滅びるという悲劇性を強調して平家については特に過大になっていると思われる。

「吾妻鏡」も源氏の威光を強調するために誇張していると考えられやはり過大である。

「玉葉」は源氏軍が京に都入りした当時の日記であり、実際に見聞したものと思われるので源氏軍についてはかなり信憑性のある数字と思われる。一方で平家軍の二万については入洛のうわさに畏怖した公家達の間で話が大げさになり、平家側も敵を威嚇するべく過大に宣伝したのかもしれません。平家は屋島(香川)からおよそ二日間の船旅で福原(神戸)に着いたようですが、現代の研究では当時の糧食の供給能力、船の輸送能力を考慮して、また陸上(福原)には兵舎も無く(大宰府へ都落ちする際に自ら火を放った)神戸の狭い地形からもこれらの数字はかなり過大だとされています。

平家はただの軍勢ではなく「都落ち」をした集団移住者でもあり公卿、官吏、女官、子供、使用人が含まれていて実際の戦闘員は数千~一万人程度だったとみられています。

 

両軍の勢力について私は以下の「神戸市史別録」の見方を踏襲します

源氏軍:「玉葉」の記述をもとにして、途中から合流したものを加えて正面の本隊二千騎、搦手隊(義経隊)千騎

平家軍:「玉葉」(二月十九日条)に一ノ谷の戦いに敗れて屋島に到着した平家は三千人とあり、合戦での平家の戦死者が約千人(「吾妻鏡」の記述なのでこれも過大か)とすれば寄せ集めの平家軍から逃亡した者も考慮し逆算して約六千騎

一ノ谷の戦いは「玉葉」によるとおおよそ2時間で決着したようで、このような短時間で

決着したことからも両軍の規模は「吾妻鏡」、「平家物語」の記述ほど大きくはなかったと考えられています。

 

 

☆平家の布陣

   現在の神戸市中央区から垂水区に及ぶ地域に東西の防御陣地を敷き南部には大輪田泊(港)

  があった

東側の陣(生田口)

場所:神戸市中央区 生田神社・三ノ宮駅周辺

   嘗ては「生田の森」とよばれ境内に名残の木立がある

役割:源氏軍を迎え撃つ正面の防衛線

主な武将:平知盛(清盛の四男)、平重衡

 

西側の陣(一ノ谷口)

場所:神戸市須磨区 須磨浦公園・一ノ谷・須磨駅周辺

役割:西国(播磨方面)からの攻撃に備える後方の防御拠点

主な武将:平忠度(清盛の弟)

 

大輪田の泊(とまり)

場所:神戸市兵庫区 和田岬の南東部

役割:清盛が造営した港湾施設で平家の軍船が集結

   安徳帝の身の安全と退路の確保、海上からの弓による援護

   合戦前に安徳帝は船上におられたと考えるのが妥当

 

 

源平合戦絵巻