浅ましくも美しき 猟人日記 狼Вирiок | 不思議戦隊★キンザザ

浅ましくも美しき 猟人日記 狼Вирiок

19世紀、中央ロシアの広大な森に銃声が響く。地主の貴族が狩りを楽しんでいるのである。狩猟犬を連れた地主はたったいま仕留めた鳥を手にして満足していた。ところが空が急に暗くなり烈しい雨が降り始めた。こりゃいかん。地主があたふたと馬を引いていると大男が目の前に現れた。森番だった。急に雨が降ってきたので心配してやってきたという。
森番の申し出で地主は番小屋で雨宿りすることになった。番小屋へ向かっている途中、森番は微かな音を聞いた。誰かが森へ入り込んで木を運んでいるのだ。この森は持ち主のもの、木でも動物でも盗むことはご法度である。森番は音のする方へ急ぎ、犯人の農奴を捕まえた。

 

お仕事

 

一間しかない暗くて狭い番小屋には森番の娘と赤ん坊がいた。ウリータという名の娘はゆりかごをゆらして赤ん坊をあやす。母親は留守かね?という地主の何気ない質問に、かかあは旅商人と駆け落ちして出て行っちまった、と言葉少なに森番が語った。

 

お仕事


部屋の隅で縛られたまま座っていた農奴が「ビリューク」と森番に呼び掛けた。「お願いだ。見逃してくれ」と泣き言をいう。それを聞いた地主はまじまじと森番の顔を見て「そうか、あんたがビリュークか」と言った。「あんたは盗人に容赦しないらしいな」。
ビリュークとは一匹狼という意味である。農奴に厳しい森番は近隣の者たちにビリュークと呼ばれて憎まれているのであった。

 

これもお仕事

 

雨がやみ、ビリュークは地主を森の出口まで送り届けた。番小屋に戻ると農奴はまだぐずぐずと泣いている。ビリュークは森を守るのが仕事である。盗人を見逃すわけにはいかない。しかし農奴の貧しさも知っている。ここでは誰でも貧乏だ。俺だって貧乏だ。だから森番という仕事をしている。ここで見逃したらただの怠慢だ。ビリュークは農奴の首根っこを掴んで乱暴に外へ引きずりだし、脅すだけ脅して逃がしてやった。

 

もしかして優しいのでは?

 

ビリュークの生活は単調であった。日が昇ると見回りに出かけ、木の枝を集め魚を獲る。すべてひとり仕事なので誰とも話さないし話す必要もない。ウリータを連れて歩くときも余計なおしゃべりはせず、もくもくと働いた。束の間の休息に、ビリュークの笛でウリータが踊ることがささやかな愉しみであった。

 

日常の唯一の楽しみ

 

ある日、ビリュークは戻ってこなかった。ビリュークが戻ってきたのは翌日であった。着ているものは破れて泥だらけで、顔には殴られたような痣もあった。ビリュークは村人たちにリンチされたのである。

 

生きるって辛い

 

発端は村人の仕掛けたワナにかかっていたウサギをビリュークが横取りしたことだった。しかしビリュークは横取りしたとは思っていない。なぜなら持ち主のいる森で勝手にワナを仕掛けることは禁止だし、村人が森の動物を持ち帰ることは盗みだからだ。ビリュークは忠実に仕事をしただけかも知れない。だが、そのウサギ一匹で命を繋ごうとしている人間もいるのだ。村人たちはビリュークがひとりになったときを狙って、積年の恨みを晴らしたのである。

だからといってビリュークは村人を恨むことはない。恨むこともないが、仲良くしようとも優しくしてやろうとも思わない。これまで通り自分の仕事を続けるだけだ。いまさら一匹狼が群れに入ることなんて出来ない。

 

不器用な一匹狼

 

代わり映えのないある日、ビリュークが家に戻るとウリータがいない。水でも汲みに行っているのかもしれない。しばらく待つが戻ってこない。赤ん坊は腹を空かせて泣いている。家事を放って家を留守にしたウリータにイラ立ち、赤ん坊の泣き声にイラ立ったビリュークは、思わず赤ん坊の首に手をかけた。どうせ育つかどうか分からない赤ん坊だ。ちょっと首をひねればすぐ終わる。しかし、出来なかった。赤ん坊を手をかけることが出来なかったのである。ビリュークは部屋の中でひとり泣いた。

 

心細くなったのだろうか

 

雨が降り出してもウリータは帰ってこない。どうしたんだろう?迷子になったのだろうか?それとも怪我でもして動けないのだろうか?ビリュークは角笛を持って探しに行く。大声で名前を呼びながらあちこちを探し回った。日はどんどん暮れていく。夜になったら気温はもっと下がるだろう。ビリュークの声が叢の中で倒れていたウリータの耳に届く。外出中に体調を崩したのである。

 

生きるって本当に辛い

 

ビリュークはウリータを背負い急いで家へ連れ帰る。熱が高い。薬なんてないし、雨の夜の中で薬草など見つかるはずもない。しかしじっとはしていられない。熱で苦しむ子供を前に、ビリュークは無力であった。不安と孤独に突き動かされてビリュークは誰かを探しに行く。ある家の前まで来て、窓から漏れる灯りを見たビリュークは引き返した。

 

助けを求めることも出来ず


翌朝目を覚ましたウリータは、マリア像に蝋燭が灯っているのに気が付いた。ビリュークが一晩中温めてくれたおがけでウリータの熱は下がっていた。森番風情のビリュークにとって蝋燭は大変な贅沢品である。

 

ロシアのイコン

 

気持ちの良い秋晴れの日、今度は若い地主がやってきた。地主は着飾った友人たちを連れていた。ビリュークは馬を引いて森へ案内する。地主はこの森を売ってしまう記念に、森でピクニックするために友人たちを連れてきたのであった。彼らはフランス語で話しているのでビリュークには理解できない。そもそも地主のしゃべる内容に聞き耳を立てるビリュークではない。
地主と客人たちがピクニックをしている間、木にもたれかかって惰眠をむさぼっていたビリュークの頭部に流れ弾が当たった。ほんの狩りの真似事でいたずらに銃を撃った客人の弾が当たったのである。ビリュークは一度立ち上がるが、そのまま倒れ込み動かなくなった。

 

人生ってあっけない


赤ん坊を連れたウリータは銃声に気付くことなくピクニックの残骸を漁っていた。

 

ああ辛い

 

―完―

1977年のソ連映画。セリフも登場人物も必要最小限で事件らしい事件もなく、ただ森番の日常が淡々と描かれている。非常に静かに進むので退屈かというと全くそんなことはない。映像が素晴らしいのだ。特に光と影の捉え方が極上で、暗い番小屋に差し込む光線、森の木漏れ日、蝋燭の光。セリフはなくともそういったものが雄弁に語っている。
そして美しい映像に自然の音が満ちている。長閑な白樺の森に響く啄木鳥(きつつき)が穴を穿つ音、鳥たちの鳴き声、風で木の葉が揺れる音、池で魚が跳ねる音、雨が降る音、雷の音、ビリュークが森を歩く音。

 

これはもう芸術

 

非常に写実的だが素朴で詩情に溢れた作品は、まさにロシアンアートといった趣であった。暗い部屋に差し込む光はレーピンが描く光であり、ビリュークとウリータが住んでいる森は19世紀のロシア画家が描く森である。いやあ、驚いた。

 

光の使い方が美しい

 

寡黙な森番はセリフが少ないにもかかわらず圧倒的な存在感だ。掘っ立て小屋のような番小屋にボロボロの服、顔半分を覆うヒゲがいかにも洗練されていない未開の野人といったところだが、鋭い視線に精悍な顔立ちと均整のとれた肉体は見惚れるほど野蛮な美しさなのである。まあ、ひとことで言うと「まるっとイケメン」である。

 

森番にしておくにはもったいない

 

ビリュークが感情を表に出さない寡黙な性格なので娘のウリータもあまり笑顔は見せない。そのせいか実年齢より大人びて見えミステリアスで美しい。だからこそ、父親の笛でダンスを披露するシーンでは子供らしさか垣間見えて可愛いけど、普段は大人にならざるを得ない彼女の日常に思いを馳せてしまい不憫に思ってしまって胸が詰まる。ってな感じでメリハリがあるというか、そのコントラストが素晴らしい。

 

むっちゃ美少女

 

もっとも印象的なコントラストがラストシーンだろう。いくら忠実な森番であっても所詮は農奴と同じなのだ。仕える貴族の気持ちひとつで人生が左右され、流れ弾で森番が死んだとしても貴族はそれを気に掛けない。なぜなら農奴や森番といった庶民も、その領地を管理している貴族の所有物にすぎないからだ。

 

久しぶりの食事にがっつくふたりが切ない

 

今作品はツルゲーネフの25編からなる「猟人日記」の中の「狼」という短編を映画化したものである。ということで原作を読みたくなった。確か二葉亭四迷が翻訳してたよな~と思って古本屋を漁ると二葉亭四迷全集9巻セットがあったのでポチる。ところが届いた全集に「狼」は入っていない。四迷が訳したのは25編のうちの1編「あいびき」だけだったのである!

 

そのうち読むつもり

 

ど~~~すんだよ、コレ。旧漢字旧仮名遣いで9巻もあるぞ。しかも読みたい「狼」は入ってないぞ。仕方ないので「あいびき」を読んではみたものの古すぎて漢字が読めない!旧漢字はほぼ読めると自負していたマダム、撃沈。それがどんな漢字かというと「彼得堡」である。これがどうして「ペテルブルグ」なんだよ!読めねえよ!

ということで四迷全集は積んでおいて、猟人日記全編を完訳した角川文庫上下巻、中山省三郎訳をポチる。

 

これは読んだ

 

これは読めた。都市名が当て字ではなくちゃんとカタカナだったので読めた。映画の原作となった「狼」も読んだ。原作では森で捕まえた農奴を逃がしたところで終わっていた。映画でいうとまだ初っ端の部分である。農奴を逃してからのシーンは映画だけの創作なのだ。新しく加えられたエピソードで、原作にはなかったビリュークの孤独と人生ののっぴきならなさが浮彫となっている。同時に当時の「農奴制度」という悪法も。

 

「猟人日記」原作者のツルゲーネフは二十歳でロシアを離れてドイツに留学したときのことを回想して曰く

 

私は自分の憎むものと同じ空気を吸って、一緒にいることができなかった。それには恐らく私には相当の忍耐力と強い性格が足りなかったのであろう。私は敵に対して、より強い打撃を与えるために是非とも敵から遠ざかる必要があった。私の眼に、この敵は判然たる形象を持ち、一定の名を持っていた。敵というのは、ほかならぬ「農奴制度」であった。

 

ツルゲーネフにここまで言わせる農奴制度がどれだけのものなのか調べたら、とんでもなく酷いことが分かった。農奴という一般民衆には、移動の自由も結婚の自由も領地から外出する自由もなかったのだ。すべては管理者に管理され、何をするにも管理者の許しが必要だった。農奴は家具や家畜と同じく売買できる対象であった。まさに奴隷である。

ツルゲーネフは管理する側だったが感受性がひとより少々強かったために、農奴制と農奴制を許している祖国ロシアを憎んだのである。そして「猟人日記」を著した。

 

猟をするツルゲーネフさん

 

ツルゲーネフの「猟人日記」はロシアの自然とそこに生きるひとびとを瑞々しく描写している。登場する農奴たちは実際にツルゲーネフが猟を通して知り合った農奴たちである。ツルゲーネフは彼らを貧しい生活の中でも信仰心を忘れず、よく働き、よく飲み、恋愛し、人生について悩み、そして死んでいく一己の人間として描いた。

ところがこれがいけなかった。一部の貴族たちから「扇動の書」として糾弾されたのである。なぜか。

 

管理する側にとって農奴とは、人格も権利も持たない家具であり家畜であった。それがまさか自分たちと同じように考えたり悩んだり恋愛していることを知り、恐ろしくなったのである。このあたり、フランス革命の発端となった貴族と民衆の乖離に似ている。

 

その扇動の書とされた「猟人日記」が、どういうわけか当時のロシア皇帝アレクサンドル2世の愛読書となる。そのせいかどうか不明だが、アレクサンドル2世は悪名高かった農奴制を廃止した。もしツルゲーネフの「猟人日記」が引鉄だとしたら、まさにペンは剣より強しである。廃止した直後は混乱したみたいだけど。

「猟人日記」から約50年後、ロシア革命が興り王家を潰す。

 

さて、ということで、映画「猟人日記 狼」は美しくも裏の歴史を描いた作品と言える。絢爛豪華な宮殿もドレスもないが、自然の中でつつましく生きるひとびとを描いた名作であった。

 

 


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