法恩院住職 鳥沢廣栄著
『スッと心が軽くなる仏教の言葉』を引用させて頂き投稿させて頂きます。
[考え方を少し変えたり、世の中を見る角度を少し変えれば、生きる希望は見えてくるものです。それを説き明かし、安楽な世界へと導いてくれるのが仏教なのです。
仏教には、自分の生き方を変える言葉がたくさんあります。生きる希望が湧いてくる言葉が数多く語られています。そのことを多くの方に伝えたいと思い、本書を記しました。
この本を読んで、少しでも生きる希望が得られるならば、幸いに思います。あなたの心に響く言葉が、きっと見つかることと思います。 合掌]
鳥沢廣栄著
第一章 心が軽くなる言葉
◆無貪著(むとんじゃく)───本来はいい意味だった(典籍:貪著は「中阿含経」)
[何事も気にしない、周囲に気配りができない人のことを「無頓着な人間」といいます。「無頓着だね」といわれれば、決して褒め言葉ではありません。ところが、本来は褒め言葉だったのです。
そもそも「無頓着」は、「無貪著(むとんじゃく)」と書きました。読み方も異なっています。意味は「貪著しない」ことです。
「貪著」とは「貪り求めること。貪りに執着すること」です。したがって、「無貪著」は「貪り求める心がない、執着心がないこと」です。それは修行者にとってはもちろんのこと、一般の人々にとっても理想の姿でしょう。無貪著になることができたならば、それは覚りの境地でもあります。
しかし、平安の世の頃には、すでに「頓着」という文字になり、意味も「深く心に気にかける」という、いい意味での執着心にすり替わってしまいました。確かに、気配りをすることは一種の執着心でもあります。
無頓着な人は、ひょっとしたら覚りに近いのかもしれません。執着心が少ないといってもいいのかもしれません。ですから、無頓着な人に出会っても、それは責めることではなく、感心したほうがいいのでしょう。また、無頓着だね、といわれても気にしないほうがいいのでしょう。無頓着な人は、執着心が少ない人なのです。]
【釈尊の初期の教えに「四諦(したい)」がありますが、生きると云う事は苦であり、(自分の思い通りにならない事)執着が原因であると説かれておられます。この執着を取り除く無貪著は、ここに書かれている如く、覚りの境地であり極めて困難です。しかしその方向にそって精進してゆくのが仏道修行です。 合掌】