プロレス団体に「BASARA(バサラ)という団体があります。

代表の木高イサミ氏は「派手な格好をして体制に反抗するとか、そういうプロレスをやっていきたい」のでこの名前にしたと語っているそうです。

バサラとはこんなイメージだと思います。

 

バサラ傾奇者(かぶきもの)とごっちゃになることが多いのですが、年代が違います。

傾奇者は、若き日の織田信長だとか、前田利家前田慶次といった戦国時代に現れました。

それに対し、バサラ大名が活躍したのは室町時代です。

 

傾奇者ですが、人気の高い前田慶次にしても文武に優れていたとされますが、文のほうの実績はよくわかっていないし、身なりについても具体的に書かれている資料はないようです。

信長に関しては、父・信秀の葬式の時の格好が記されています。稲穂で作った縄で両刀を巻き、髪は茶筅にして、袴を着用していなかったといいます。

たしかにオリジナリティはあるかもしれませんが、洒落者ではないように思います。

 

いっぽうのバサラ大名はどうでしょうか?

北条明直さんという方が書いた「いけばな人物史」という本があります。

 

道誉は、京極高次とも言い、室町幕府の権力の中枢にいた人物です。

その道誉の姿が「太平記」に書かれています。

家臣はみんな猿の皮でできた靭(うつぼ・矢をいれる道具)、腰当をして、鶯の入った鳥かごを手にしてた」とあります。

なんとも奇妙ないでたちですが、これは能楽でも演じられた当時では最先端の格好だったそうです。

傾奇者が破れたジーンズを履いていたのなら、バサラ大名はブランド品でばっちり決めている感じがします。

 

次にバサラ大名の文のほうですが、茶道の千利休は「数寄道大意」には「京極道誉、群を抜きんでて茶香を賞す」とあります。

また「太平記」では「都には佐々木佐渡判官入道道誉をはじめとして、在京の大名、衆を結んで茶の会を始め、日々寄り合う

とあります。また連歌の世界でも一家言を成すなど、文化人でもリーダー格でした。

 

バサラとは、サンスクリット語で、bajraと書き、もともとは金剛という意味です。

「いけばば人物史」によると、バサラとは、

 

音楽や舞楽で本来の拍手と外れて目立つようにしたことを言い、そこから派手に目立つようにすること、さらには遠慮会釈なく振舞うこと、身分を越えて贅沢すること意味する言葉となった。

 

とあります。

 

バサラ大名としては道誉と同様、幕府の要職者だった高師直(こうのもろなお)土岐頼遠(ときよりとう・美濃の守護大名)の名が挙げられます。

信長などの傾奇者は新興大名であったのに対し、バサラ大名はもっと高い地位にいた人たちと言えます。

 

信長が葬式の時、父親の位牌に灰を投げつけ、人々のひんしゅくを買ったのは有名ですが、バサラ大名はスケールが違います。

道誉は天皇の兄弟の屋敷を腹立ちまぎれに焼打ちします。

さらに頼遠は、光厳天皇と道ですれ違った際、下馬せよと命じられたのに腹を立てて、牛車に矢を射込むという暴挙を行っています。

 

傾奇者はティーンエイジャーのツッパリみたいなものですが、バサラ大名は権力に根差したもっと過激なものでした。


そのいっぽう、バサラ大名は文化人としても一流であったところが面白いところです。

ただ、道誉たちが文化的行為をただの道楽で行っていたかというとそうでもなく、北条氏が指摘するように「これら寄合は政治的陰謀の手段ともなり、寄合を通じての政治同盟や結合にも利用されたにちがいない」ということです。

 

「いけばな文化史」の佐々木道誉の項は次の文で締められています。

 

道誉をいけばな人としてみなすには、彼はあまりにも野心的政治家でありすぎる。しかし、この当時いけばなはけっして独立専業のものではなく、あくまで趣味教養の一端でしかなかった。むしろ後世のいけばなが、堂家や寺僧の中から名人を輩出するようになったその基盤は、やはり道誉のような武家として政治的にもじゅうぶん野心的なバサラ大名によって諸芸能とともに新しい人間関係のものとして認められたところに端を発するといえよう。

その意味で彼は、いけばな人物史の筆頭を位するにふさわしい人物なのである。

 

参考:「いけばな文化史」北條直明・千人社

 

佐々木道誉