江戸時代最後の年である慶応4年(1868年)4月25日、新選組局長・近藤勇が処刑されました。
近藤勇は中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に簡易的に設けられた刑場の露と散ったのです。
近藤勇は政府に盾突く賊軍の将として罪人扱いだったので、武士であるにも関わらず、斬首という刑に処されたのです。
この斬首では、遺体は引き渡されず、打ち捨てになりました。
また首と胴体を別々に埋葬されると成仏できない、という考えがあり、切腹などとは違い、単に死ぬにしても重い処置でした。
斬首では遺体は打ち捨てになったのですから、墓は存在しません。
しかし、近藤勇の墓があると伝えられる場所は全国で8か所ほどあります。
これだけ伝承地が多いというのは、逆に本当に近藤勇の遺体を埋葬している墓は存在しないのではないか、と個人的には思います。
しかし、それではあまりにもロマンがありませんので、いくつかの説を見ていきましょう。
まず一つ目は、処刑場の近くにある寿徳寺です。
JR板橋駅近くのこのお寺の近隣には近藤勇像や新選組供養碑があります。
この説は単に処刑場に近いというだけで信憑性はないように思えるのですが、胴体は案外、こんな近くに埋められたのかもしれません。
首は京の三条大橋にさらされたのですが、その行方は定かではないと言います。
胴体とは違って、首は有志の手によってどこかに埋葬された可能性はありそうです。
近藤勇の墓に関しては会津若松にある天寧寺が最も知られているようですが、旧暦の4月25日は太陽暦でいえば5月17日。
かなり暖かくなってきた時期ですし、切り取られた首は塩漬けにしたとしても、相当匂うし、目立ったのではないでしょうか。
そんな状況で京から会津までこっそり運ぶというのは困難に思えます。
個人的には岡崎市にある宝蔵寺は信憑性がありそうに思えます。
宝蔵寺には近藤勇の胸像があります。
併立して説明文があるので、内容を要約します。
三条大橋に晒されていた近藤の首を奪取した同志は、かつて近藤が敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に供養してくれるように申し入れる。和尚は、39代目の貫主になることが決まっていた法蔵寺に近藤の首を密かに持ち込み、塚を建立した。
和尚さんであれば、首を持ち運ぶことは一般人よりは容易のように思えます。
ですが、遺体が埋葬されたかどうかではなく、故人を思う気持ちのほうが大事です。
首がどこに埋められたにせよ、弔う気持ちがあれば、お墓は建てられます。
近藤勇のお墓の場所については真相は解明できないでしょうが、歴史的ロマンを感じます。
このGW、みなさんも歴史のロマンを求めて、旅に出てみてはどうでしょうか?
ここまで書いて、尾崎豊の命日も今日だと知りました。
近藤勇と尾崎豊の命日が一緒だと知り、驚きました。
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