豊島区高松は隣町で幼いころ自分たちにとっては遊び場としてはホームグランドだったのですが、高松二丁目にある公園には、富士塚がありました。この富士塚はフェンスで覆われ、立ち入り禁止でした。子供たちにとって富士塚は魅力的なものではなく、フェンスをよじ登ってまで入りたいと思わせる代物ではありませんでした。

まったく関心がなかったのですが、今になっては非常に興味深いものがあります。

立て看板によると、直径21メートル、高さ8メートル。文久二年(1862年)の建造です。

文久二年は生麦事件のあった年で、まさに混沌とした時代でした。

伊勢神宮のお札が空から降ってきていわゆる「ええじゃないか」といわれる騒動が起きたのが慶応三年から明治元年(1867年から1868年)。江戸時代が終焉を迎えるときであったのに比べ、富士塚の流行はもう少し早かったようです。

富士塚は、安永九年(1780年)、高田水稲荷にできたものが最古といわれていています。田沼意次が権勢を振るっていた時期ですから、幕末の足音はまったく聞こえていないころでした。

もともと富士塚は富士講という民衆信仰がベースとなっています。この富士講は、歴史は古く、起源は江戸時代初期にまでさかのぼります。藤原鎌足の子孫の角行の教えを具現化して、富士講が出来上がったとされます。

しかし、富士塚が多く造られるようになったのは、幕末近くになってからです。

江戸初期にはすでに存在していた富士講から、富士塚が産まれるのは200年くらい経ってからなのです。

富士講も、富士塚も町民、農民を中心としていたので、その層の力が強くなってきたということなのでしょうか?

いずれにせよ、富士塚は興味深い遺構だと思います。

 

 

 

豊島区のHP(富士塚の紹介)