おはようございます。
更新が不規則なブログですが、土曜日に更新する場合は基本的に歴史ネタを書くことにしてみます。
ご感想をお聞かせいただければ、幸いです。
なお、多くの記事は、木村忠啓の大江戸百花繚乱 (goo.ne.jp)において、過去に書いたものをベースにしています。
最初は、少々物騒ですが、新選組の近藤勇の首についてです。
近藤勇が板橋において刑場の露と散ったのは、慶応四年(1868年)の春。
斬首刑により切り取られたその首は塩漬けにされ京都三条大橋にて晒されました。
斬首といっても、実は厳しさには三段階ありました。
下手人、死罪、獄門です。
どれも首を斬られるのは一緒なのですが、下手人は遺体を引き取ることができ、死罪以上は打ち捨て、獄門はさらし首という恥辱刑が付加されました。
近藤勇の場合は獄門ですから、当然遺体は打ち捨てで、首は晒されました。
晒された近藤の首は、後日、行方不明になりました。
目立った所に置かれていた訳だし、セキュリティシステムもない時代の話ですから、夜陰に紛れて奪取することは可能だったでしょう。
しかし、朝敵となった新選組幹部の首を堂々とは葬れません。
秘密裏に行われたことですから、近藤勇の首が最終的にどこに埋められているかについては、分からないのです。
そのため現在、近藤の墓ないしは首塚と呼ばれているものは、国内に数カ所あります。
岡崎市の法蔵寺もその一つです。
寺の門前には看板があり、由来が書いてあります。
それによると、 三条大橋に晒されていた近藤の首を奪取した同志は、かつて近藤が敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に供養してくれるように申し入れました。和尚は39代目の貫主になることが決まっていた法蔵寺に近藤の首を密かに持ち込み、塚を建立したということです。
この寺は岡崎にあるだけあって、家康ゆかりの寺でもあります。
家康は幼少の頃、この寺で学問を学んだこともあるらしく、門前には家康手植えの松(今の松は後に植えられたもの)があります。
徳川ゆかりの寺に、近藤の首伝説が残るというのも、何かの因縁を感じます。
この寺は、旧東海道筋にあり、門前では昭和初期まで、法蔵寺団子なる名物が売られていました。 一本の串に指で平たく潰した五つの団子を炙り、溜り醤油で味付けしたものでした。
炙られた団子のいい匂いに誘われて、大いに売れたようです。
近藤勇の首塚説が浮上したのは、昭和30年代ですので、それまで法蔵寺は団子で有名な寺だったのです。
(2008.12)
寺内にある近藤勇の胸像
寺の全景