縁切寺として有名な鎌倉・東慶寺。

この寺の説明は、普通だったら、下記のように書かれるのではないでしょうか。

 

東慶寺は正確には松岡山東慶総持禅寺という。

開山は、弘安八(一二五八)年、鎌倉幕府八代執権北条時宗の妻、覚山尼によってである。覚山尼は女人救済をめざし、この寺を創始したとされ、開山当初から駆込による「縁切」寺法を始めたと伝えられている。

寺は代々、後醍醐天皇の皇女や豊臣秀頼の息女天秀尼など、高貴な身分の女人により守られてきた。長い歴史を持つ名刹であり、幕府も手を入れることのできぬ寺格の高さを誇っていた。

山門の奥は男子禁制の結界。

たとえ、親であろうが男性が入ることはできない。

鷹井怜「雪の殿様」

 

しかし、下記のような例もあります。

まず、最初で

 

左にゆけば鎌倉、右にゆけば六郷を経て江戸である。街道を隔てて尼寺がある。

松ヶ岡東慶寺。北条時宗の妻堀内殿(出家して覚山志道尼)の開創になる尼禅寺であり、その当時から縁切寺として高名なお寺であった。

この土地は山ノ内村といい、旧鎌倉の外にある。北条時宗はこの山ノ内に住んで『山内殿』と呼ばれたという。堀内殿は亡夫ゆかりの土地にこの寺を建てたわけだ。今は戸数八十戸に満たない、街道を挟んだわびしい村落である。

峰慶一郎「縁切り 女の無常」

 

のように述べておいて、別の部分で、

 

松岡山東慶寺。正確には東慶総持禅寺。

総寺とは達磨大師の弟子尼総持にちなんだもので、禅の尼寺の意だと云う。土地の古老は東慶寺とは呼ばず『松ケ岡』といい、ものの本にも『松岡御所』『鎌倉比丘尼所』と書かれた。この由緒のある寺が、江戸時代に入って以来、不運に見舞われることになった。

 

と続き、その後2ページにわたり、説明があります。

 

地の文で説明を書くのは単調になりがちで、このように長い説明を入れるのは相当な筆力と情報の取捨選択の適切さがないと、ただ饒舌なだけで読むのが面倒な文章となります。

その点、「土地の古老は東慶寺とは呼ばず『松ケ岡』といい」などといった内容はどこで調べたのかと思います。このように読者の興味を惹くことができるのであれば、説明文は長くなってもまったく構わないのですが、凡庸な内容では読み飽きられてしまいます。

インターネットですぐ調べられることを延々と書くのは害になりこそすれ、一利もないのではないでしょうか。

 

地の文での説明は難しいものがあると考えています。

 

 

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