わたしは、昔からとにかく書くのが好きで、ブログのようなものも、いくつか作っています。

その中で「大江戸百花繚乱」というブログもあります。

最初に投稿した日付を見ると、2006年5月16日とあります。なんと、14年も前の話です。これには自分もびっくり。最近はあまり更新できていないのですが、パラパラと内容を見ると我ながら面白い記事もあります。

そこで、焼き直しになりますが、こちらのブログでも内容を紹介させていただきたいと思います。

最初に紹介させていただくのは2012年5月7日に書いた記事です。

以下に、加筆修正をして掲載させていただきます。

 

江戸時代は車もないし、自転車すらない時代。おまけにスーパーなどもありませんでした。

野菜は八百屋に、魚は魚屋に買いに行かなくてはなりませんでした。

ずいぶん、不便だっただろうな、とお思いの方も多いでしょうが、そうでもなかったようです。

なぜなら、棒手振りが向こうから、自分の家の軒先にやってきてくれたからです。

棒手振りは、ぼうてふり、とも、ぼてふり、とも呼びますが、要は、魚なら魚と、専門の品を扱う行商人です。

 

棒手振りが売りに来たのは、卵、針、洗濯後の着物につける糊、団子、薬、ござ、塩、あゆ、朝顔、桜草、花火、金魚など多種にわたります。
床屋も廻って来たし、廃品回収も来ました。
驚くのは、卵屋なら卵だけ、針屋なら針だけを売りに来ていたことです。単品だけ扱っていては、売り上げもしれたものだろうと思うのが、普通でしょう。


この棒手振りの稼ぎについては、浅野史良氏の「数字で読むおもしろ日本史」(日本文芸社)に詳しい記述があります。

引用している元本は、「文政年間漫録」という書物です。以下にその意訳を掲載しますが、面倒な人は読み飛ばしてください。

夜明けとともに銭六百文から七百文を持ってダイコンやレンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。一日中、町の路地裏まで入っていき、日が沈んだころ、自分たちの食べる分だけを少しだけ残して長屋に帰ってくる。棒手振りは財布から稼ぎを出し、明日の仕入れ用の金を除き、家賃分を竹筒に納める。棒手振りは米代として二百文、味噌や醤油代として五十文を女房に渡す。さらに子供たちに菓子代として十三文ほど手渡すと、手元には百から二百文が残る。ここから酒代として少し抜き、残りは雨で商売に出られない日のつなぎ用として竹筒に入れる。

なんだか小学生の足し算・引き算の問題のようですが、分かりやすいように式にすると以下のようになります。一文は30円として計算します。

(収入)
元金   700文 (21,000円)
野菜の売上    1,200文(36,000円)・推定
合計         1,900文(57,000円)

(支出)
野菜の仕入れ値 681文(20,430円)・推定
米代        200文(6,000円)
味噌・醤油代    50文(1,500円)
菓子代        13文(390円)
酒代(2合)     16文(480円)
家賃用貯蓄     40文(1,200円)・推定
貯蓄         200文(6,000円)
翌日への繰り越し 700文(21,000円)
合計        1,900文(57,000円)

野菜を仕入れて販売することにより、棒手振りは1200文-681文=519文(15,570円)儲けたことになります。


家賃にしても毎日40文も貯蓄しなければならない訳ではありませんでした。
文政のころであれば、家賃は二間の長屋で300文(9000円)、二間半の長屋で400文(12,000円)ほどであったからです。
 

もちろん、これほど儲からない日もあるし、商売に出られない日もあるでしょうが、単純に月22日稼働と計算すると、年収411万円となります。

あれえ!
棒手振りは貧しいというのが時代小説の固定イメージですが、何かそうでもないような。