旧ブログにも書いたので、焼き直し的な感じもするのですが、司馬遼太郎に続いて、山本周五郎のすごさについても書いてみたいと思います。

山本周五郎と司馬遼太郎では、時代が違いますし、扱っている内容もかなり異なっていますが、どちらも日本を代表する時代小説化であることに異論を述べる方は少ないと思います。

 

わたしは以前、光瀬龍さんに師事していたことがありました。

光瀬さんは優れた時代小説も書いておられるのですが、SF小説家らしく天邪鬼なところがあり、山本周五郎の小説は嘘っぱちだと酷評していました。

理由は「江戸時代というのは人の命が安く考えられていて、けっしてあのような人情深い時代ではなかった」というものでした。

この言葉は、時代考証家の杉浦日向子さんが「江戸時代は明るい絶望感が広がっていた時代だ」という発言とつながってくるように思います。

虫歯になれば抜くだけ、病気になれば死ぬだけ。それが当たり前と考えられていた時代が江戸時代でした。

 

たしかに、このような考えは的確かもしれません。

江戸時代に現代風のヒューマニズムを持ち込むな、というのが光瀬さんの思いだったのですが、この部分は小説家の信念であり、単純に白黒は付けられないと思います。

 

最初から話が脱線気味になりましたが、山本周五郎のすごさは、ずばり「天邪鬼な視点」です。

司馬遼太郎は「英傑」を好んで描きましたが、山本周五郎が好んで描いたのは「庶民」です。

 

わたしが書く場合に一番考えることは、政治にも構って貰えない、道徳、法律にも構って貰えない最も数の多い人達が、自分達の力で生きていかねばならぬ、幸福を見出さなければならない、ということなのです。一番の頼りになるのは、互いの、お互い同士のまごころ、愛情、そういうものでささえ会って行く……、これが最低ギリギリの、庶民全体の持っている財産だと私は思います。「泣き言は言わない」(新潮文庫)

 

直木賞を固辞し、毎日出版文化賞も断った男。

山本周五郎は権力に対し、天邪鬼的なところのある冷ややかな視線を向け、常に疑っていた作家なのでしょう。

武骨といえば、あまりにも武骨な作家が好んで口にしたのは、、スウェーデンの劇作家・ストリンドベリイの

 

苦しみつつ、なお働け 安住を求めるな この世は巡礼である

 

という厳しい言葉でした。