すごく考えさせられる映画でした。

 

コロナが猛威を振るう際、政府が採用した理論は「ベネフィット(利益)がリスク(危険)を上回っている状態」であれば、GOサインを出すというものでした。

ワクチンに内包される危険性を知りながら、「肉を切らせて骨を切る」という方法を採ったのです。

 

この映画で提起されている問題点は、①政府はワクチンの危険性を知っていながら、嘘を吐いてまで安全性を強調したワクチン接種率を上げるため情報操作を行ったさらに安全性を認知させるため、被害者の情報を意図的に伏せた。という3点にあります。

 

当初ワクチンは腕に留まると発表されていましたが、実は脳や臓器まで到達する可能性を政府は知っていたのです。

あえて隠していたわけですが、最初からこのような情報を発信していたら、ワクチン接種する人はごくわずかになってしまったでしょう。

 

映画の中に長崎大学の森内浩幸教授の話が出てきます。

「コロナワクチンは優れたワクチンではなかったかもしれないが、当時では一番のワクチンだった。このワクチンによって救われた命は多い」という見解です。

 

さらに森内教授は「最初は有効性のあるワクチンだったが、段々その有効性が失われていき、リスクがベネフィットを上回るようになっても使用され続けた」点を問題視していましたが、その通りだと思います。

この点は一番の問題点です。

危険性を秘匿したまま、ワクチンを推奨し続けたのは国家的殺人ほう助だと思います。

 

「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスは、

 

自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。

 

という誓いを立てました。

映画のタイトルはここから来てます。

果たしてワクチン問題は「盲点」だったのかどうか?

 

情報社会の現代。

インターネットで調べれば、何でも分かると思っている人は多いと思います。

間違いです。

現代は情報が多すぎて、正確な情報が得にくい時代になっているのです。

知能が高いほど詐欺被害に遭うと言いますが、インターネットもまさしく同じです。

いかにも権威ありそうな人や団体が「正論」を主張しています。

しかし、それが情報を操作しようとする人たちによる工作だったらどうでしょうか?

一回、「正論」や「世論」を疑ってみる姿勢が大事だと思います。

 

福島雅典教授のような方々が、たとえ全体の一握りだとしても存在してくださっていることは救いです。

 

ぜひ、観ていただきたい映画です。

 

 

ヒポクラテスの盲点HP

 

 

 

サザンオールスターズに「松田の子守唄」という曲があります。

バラード調のいい曲です。

 

せめて 一度ならずとも

心から酔わせたげる

乱れたりしてもいい

すべからく 恋はいいもの

 

冒頭はこのような歌詞です。

とうぜん、歌詞の内容は分かります。

分かるけど、何か変です。

 

「せめて」から始まるのであれば、最後は「一度ならば」が対応するように思えるのです。

 

次に「すべからく恋はいいもの」の内容に迷います。

「すべからく」は、~べしを伴って、「すべからく~すべし」のように使われます。

必ず~しなさい、という意味です。

ですが、本来の意味ではなく「すべての」と意味に誤用している人が30%強いるそうです。

「すべからく」には「当然~である」という意味もあるので、「当然、恋はいいもの」と捉えることはできるのですが、これではしっくりきません。

どうも桑田さんも30%の仲間のような気がします。

 

しかしながら、サザンの曲に求められるのは、正しい言葉の使用方法ではなく、雰囲気です。歌ったときの言葉の響きや語感といったものです。

 

たぶん、冒頭で「ならずとも」と文語調の言葉を使ったので「すべからく」という古めかしい言い方を対応させたのではないかと推測できます。

その口語調の言葉の間に「酔わせたげる」という崩れた口語調の言葉が入っているので、対比がいっそう鮮やかです。

もし桑田さんがぱっとこの詞を書いたのなら感性がすごいし、計算した詞であるならすごく緻密です。

 

その意味で、この歌は間違った言葉の使い方をしていながらも、すごい歌だと言えます。

 

ですが、物書き志望の方はこのような使い方はしてはならない、ということを蛇足ながら付け加えておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(この記事は2010.5.23の「大江戸百花繚乱」に書いた記事の再掲載です)

 

江戸時代は男性上位で、特に武家階級においては、女性軽視の傾向が強かったと思われがちである。
だが、江戸など男性の人口が多い地区では、町民階級ではカミさん連中の力は男性を凌駕した。
武士においては、確かに男性の力が強かったのであるが、今以上にリベラルな考えを持った人物もいた。
川路左衛門尉聖謨(かわじとしあきら)という人物もその一人である。
幕末期に勘定奉行や外国奉行を勤めた人物だが、ロシアやアメリカとの交渉において力を発揮した傑物である。
ロシアの代表であるプチャーチンと下田で交渉した際、雑談になると「自分の妻は江戸で一番美しい女性なので、こうして出張していると思い出して困ります」などと発言している。
この川路が、妻の佐登に平伏したことがある。
この事件(?)については、吉村昭の小説が簡潔に書き表しているので、引用したい。

弘化四年十二月中旬、かれは奈良奉行として一事件の裁きをした。一人の女が夫以外の男と関係をもち、そのもつれで夫を殺害し、捕らえられた。川路は、そのような色恋沙汰で事件をおこした女はさぞ美しいだろうと想像していたが、白州にすえられていた女は、稀なほどの醜女であった。
かれは、このような女でも欲情のもつれで一人の男を死に追いやったことに驚き、美貌の佐登を妻としている自分の幸せをあらためて強く感じた。
裁きを終えたかれは、居室にいる佐登の前にゆくと平伏し、ありがたや、ありがたやと何度も頭を下げた。佐登は大いに驚き、精神錯乱をおこしたかと不安になってただすと、かれは醜女のおかした事件を口にし、美しい佐登を妻にしていることがもったいない、と、さらに頭をさげつづけた。その姿に、佐登をはじめ居合わせた用人たちは、息をつまらせて笑った。


佐登という女性が実際に江戸小町になるほど美しかったのかどうか分からない。
焦点は佐登の容姿ではなく、妻の長所をほめるのろけともとれる発言を平然と行い、そして、妻にも頭を下げる左衛門尉の態度にある。
そこには、作為がない。
変なプライドとか、照れとか、駆け引きなどを超越して、ただ妻に頭を下げる左衛門尉の態度は凄いと思う。
相手が配偶者でなく他人であっても、自分の思いをここまで素直に吐きだすのは、難しい。
それだけに、左衛門尉の行動は、貴重なものに思われる。

吉村昭「落日の宴」講談社

 

 

大江戸百花繚乱

 

 

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「シビルウォー」(2024)というとがった映画を撮ったアレックス・ガーランド監督が実際にイラク戦争に従事していたレイ・メンドーサを共同監督に迎え撮影したのが今回ご紹介する「ウォーフェア 戦地最前線」です。

きっとガーランド監督というのは天邪鬼でオタク的性格なのではないかな、と思わせる仕上がりになっています。

 

本作は「ブラックホークダウン」から装飾的表現を一切そぎ落とした映画と言えます。

 

リドリー・スコット監督は自らの映画「ブラックホークダウン」を称して「リアリティに徹した」と語っていましたが、プロパンダ映画であると言われてしまえば、否定できません。

それでもハンス・ジマーの音楽も感動的で、映画を観て泣いた人も多かったと聞きます。私も大好きな映画です。

 

いっぽう「ウォーフェア」を観て泣く観客はいないし、この映画をプロパンダと言う人もいないでしょう。

 

ガーランド監督が目指したのは「徹底したリアリティさ」です。

たぶん、ガーランド監督は「ブラックホークダウン」を観て、「戦闘シーンとはこんなものではない」と思ったのでしょう。

時代劇の剣戟シーンに違和感を感じるのと、似た感覚だと思います。

 

「call on me」から始まる冒頭はドキュメント映画をほうふつとさせます。

ウィキペディアに見事なあらすじがあったので引用します。

 

2006年、Navy SEALsとアメリカ海兵隊の隊員で編成された特殊部隊「アルファ-1小隊」の8人はラマディでの任務中、とあるきっかけにより敵武装勢力と全面衝突することになる。

 

もうこれですべてです。

ストーリーはあってないようなもので、戦闘シーンが映画のほとんどを占めます。

冒頭に監督はオタクではないかと書きましたが、実際そのこだわりはすごく、劇中では銃器による発射音の違いや跳弾の音など細部まで表現されています。

また手りゅう弾や爆弾の破裂音もすさまじく、映画館で観るべき映画だなあ、と実感します。

 

前回の「シビルウォー」もそうだったのですが、この映画には正義も悪も存在しません。戦争を否定するのでもないし、肯定するわけでもありません。ヒーローも敵ボスも登場しないのです。

 

戦闘というのはこういうものだ、と描き切った点で画期的といってもいい映画です。

 

 

ウォーフェア 戦地最前線 HP

 

 

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これから機会をみて、時代小説の書き方に関する記事を書いてみます。

 

時代小説の舞台として最も多いのは江戸時代です。

江戸時代は比較的長く続いたので、江戸時代のできごとと言っても、いつ頃の話なのかつかみにくいところがあります。

 

時代小説を書くにあたっては、まず作者が江戸時代のおおよその区切りを覚えておく必要があります。

もちろん、読者の方も知っているとより時代小説を楽しめます。

 

江戸時代は、徳川家康が征夷大将軍となり江戸城へと入った1603年(慶長八年)に始まります。

終わりは、大政奉還が行われた1867年(慶応三年)とされるのが一般的ですが、時代小説を書いている自分としては、明治と年号が変わるのが翌慶応四年九月なので、個人的には1868年までが江戸時代だと考えています。

1868年は少し覚えにくいので「いっぱろっぱ」と何回も口に出して覚えました。

無理やり語呂合わせすれば「いや、ロバだ」といったところでしょうか。

 

乱暴に覚えるとしたら、1600年代が江戸初期、1700年代が江戸中期、1800年代が江戸後期でいいのですが、下記のようにも考えられます。

 

1603年から1868年まで265年。

三等分すれば、それぞれが約88年となります。

 

この88年を正確に当てはめると、

 

前期 1603年~1691年

中期 1692年~1779年

後期 1780年~1868年

 

となります。

 

88年は人の一生分くらいなので、265年は親、子、孫の三代分くらいとなります。

これを擬人化してみます(そんなことをしなくてもいいのですが、自分的にはこのほほうがイメージが湧くのでそうしています)。

 

梅さん 1603年~1704年(享年101歳) 江戸初期

竹さん 1705~1803年(享年98歳)   江戸中期

松さん 1804年~1868年(享年64歳)  江戸後期

 

梅さんが生きたのは、戦乱の記憶がまだ残る時代。

竹さんはよく言われる泰平の世に生きました。

松さんの時代は黒船の来航もあり、混とんとした世でした。

年代が区切りのいい数字になっていないのは、元禄が終わるのが1704年であり、文化が始まるのが1804年からだからです。

 

江戸初期の終わりころから、江戸後期の初めころまで、江戸時代はインフレ政策とデフレ政策が交互に訪れます。この点に着目すると、江戸時代の全体像が浮かび上がってきます。

 

元禄期    1688年~1704年 (江戸初期) 荻原重秀 

 

享保の改革  1716年~1745年 (江戸中期) 徳川吉宗

田沼意次時代 1767年~1786年 (江戸中期) 田沼意次

寛政の改革  1787年~1793年 (江戸中期) 松平定信

 

文化文政時代 1804年~1830年 (江戸後期) 徳川家斉 大御所時代

天保の改革  1841年~1843年 (江戸後期) 水野忠邦

 

三大改革の中に元禄期、田沼期、文化文政期を入れるとぐっと分かりやすくなります。

三大改革は有名なので、好政策だったような印象がありますが、必ずしもそうではなく、単に重商主義と引締政策が交互に現れてきただけです。

もちろん、引締政策は三大改革であり、重商主義はその間の時代となります。

学術的には正確ではないのかもしれませんが、おおよそのところはあっていると思います。

上記の区切りを頭の中に持っていると、いないのとでは、書く内容の深みがまったく異なってきます。

 

ちなみに、よく聞く幕末とはいつからかというと、これも諸説あるのですが、個人的にはペリーが率いる黒船が浦賀に来航した1853年(嘉永6年)ととらえています。

つまり、1853年から1868年の25年間となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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人生を半分あきらめて生きる(諸富詳彦)幻冬舎新書

 

以前、五木寛之氏のエッセイで、諦めるとは、仏教用語では明らかに見ることだ、と書いてあったのを読みました。

改めて調べてみると、諦めるとは諦観という言葉から生まれた言葉のようです。

諦観は普通は「ていかん」と読みますが、仏教では「たいかん」と読みます。

日本仏教学院のHPにとても分かりやすい説明がありましたので、以下に抜粋、要約してみます。

 

諦めるは、仏教では「あきらかにみる」(諦観)という意味ですが、何をあきらかにみるのかというと、「真理ををあきらかにみる」ということです。
つまり、大宇宙の真理である因果の道理をあきらかにみるということです。

 

そして、諦めるための4つのステップを提示しています。

  1. 失敗を真正面から見る
  2. 言い訳したり、ごまかしたりせず受け入れる
  3. 対策を立てる
  4. 実行する
何だか企業のクレーム再発防止策に似ているように思います。
ともあれ、一般的な諦めるとはずいぶん違う内容となります。
 
さて「人生を半分あきらめて生きる」の趣旨を一言で述べれば「がんばりすぎない」ということになります。
 
人生の7割を占める半ばどうでもいいこと、「どうしてもしたいかどうかわからないこと」は、少しずつ、あきらめていき、心のダイエットをしたうえで、残り3割の「深く満たされた人生を生きていくには、どうしても必要なこと」にだけ、こだわって、本気で生きる。
 
つまり、あれもこれもと欲しがらず、欲望や目標の範囲を規定することが必要だ、ということです。
諦める範囲としては、
 
「あきらめる」のは、あくまでも半分です。「すべてをあきらめましょう。手放すのです」などという、悟りめいたことは、決して言いません。
 
「人生9割あきらめても、残り1割をあえて本気で生きる」
 
と、半分だったり、7割だったり、9割だったり、はっきりしないのですが、趣旨としては、とにかく世の中に完璧なものなどないと知り、「完璧を求めない」ということになります。
普通とか人並とか、あるいは理想といった言葉に振り回されないことも必要です。普通なんて、実はどこにもないのです。
 
この本を読んで
 
世の中には2種類の人間がいると思います。
「頑張れ!」と言われて張り切る者と、不快に思う者。
後者の人にはぜひこの本を手にしてもらいたいな、と思います。
私は前者のタイプなので、この本には共感できる部分とそうでない部分が相半ばでした。
一番、琴線に触れたのは、孫引きになってしまいますが、下記の部分です。
 
死にゆく人たちが、「もう一度だけ星空が見たい」「もう一度、しみじみ海を眺めたい」というのを聞くとき、わたしはいつもハッとさせられる。海のそばに住んでいる人はたくさんいるが、しみじみ海をながめ、海を味わいつくす人はほとんどいない。ほとんどの人は空の下に住んでいながら、星をながめようともしない。わたしたちはほんとうに人生にふれ、味わい、堪能しているだろうか。非凡なものを、とりわけ平凡の中にある非凡なものを、感知しているだろうか? 
「ライフ・レッスン」キューブラー・ロス 角川文庫
 
いまを大事にいけないといけませんね。
 

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本当は危ない植物油(奥山治美著)角川ONEテーマ21

 

最近読んだ本の中で、一番尖っている本です。

 

食用油の選定については諸説あって、自分自身よくわからない部分があるのですが、この本の内容は衝撃的です。

趣旨としては、

「コレステロールをすべての悪者にするとコレステロール値を下げる薬が爆発的に売れた。同じくコレステロール値を下げるリノール酸は身体にいいイメージが定着した。飼料の副産物として産出される植物油を人に食べさせられれば廃棄費用も掛からず一石二鳥の産業界はデータを捏造してまで植物油を食用にしようとした」

といったところです。

 

企業は金銭的にバックアップして御用学者を育て、学会を支配させ、あるいは学会を作らせ、そこから発信される情報を毎日のようにメディアに乗せ、意識させない手段で人々を操っているのです。

 

「植物油が身体によくないようだ」という知識が広がっても、食品の表示をあいまいにすることによって、目をくらませているのです。

 

私がいくら学術論文で発表しても、産業界は無視を決め込んでいます。私たちは正しい知識を得て自衛するしかありません。

 

上記は「はじめに」からの抜粋ですが、最初から著者の奥山氏の怒りは爆発しています。

次に奥山氏の怒りはキャノーラ(カノーラ)油へ移っていきます。

キャノーラ油とは菜種油のことですが、もともと菜種油には毒性がありました。

その菜種油から毒性を大幅に減らした品種をカナダの学者が開発したことから、カナダにちなんでキャノーラとかカノーラ油と呼ばれるようになったそうです。

しかし、その安全性についてはあいまいなまま、世界的に広く使われています。

 

奥山氏によると、キャノーラ油は、

 

①意図的に脳卒中が起こりやすくしたラット(高脳卒中ラット)の寿命を異常に短縮  した。

②腎障害の発生に関与。

③落ち着きがなくなるなど、脳、ひいては感情への影響が認められる。

④遺伝性がある。

⑤性ホルモン減少に関係している。

⑥前立腺癌の発生率を高める。

 

のような危険性があるということです。

何だか、毒そのもののような気がしてきました。

キャノーラ油以外はどうなのでしょうか?

 

油脂栄養学で見る時。まず「リノール酸(オメガ6)」系が多く、「α-リノレン酸(オメガ3)」系の少ないものは、体内のアラキドン酸の産出を増やし、癌や動脈硬化、アレルギー・炎症性の病気を促進しますので、お勧めしません。

 

これだと選べる油はかなり絞られてきます。

奥山氏は下記の植物油についてもコメントを書いています。

 

オリーブ油:大腸前癌細胞を異常に増やす

パーム油:異常な発癌促進作用がある

コーン油:有害因子あり

ひまわり油:高オレイン酸型は脳卒中ラットの寿命を縮める

紅花油:高オレイン酸型だと、強い寿命短縮作用がある

コーン油:高脳卒中ラットの寿命を縮める

月見草油:体内のアラキドンを増やす

大豆油:発癌性を高め、アレルギー性反応を高める

ゴマ油:毒性はないが、長期にわたり多量に摂取すべきではない

 

これではあまりにも救いようがない感じですが、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか?

奥山氏は最後に、お勧めできる油を紹介してくれています。

 

第一位 シソ油・エゴマ油

第二位 亜麻仁油

 

特に、一位のシソ油、エゴマ油を推奨しています。

次に亜麻仁油です。

 

これらの油は値段も高いのですが、健康被害を思えば安いもののように思えます。

上記のコメントから見る限り、ごま油もぎりぎり選択肢の中に入るかもしれません。

 

しかし、奥山氏は「動物脂肪のほうがはるかに安全」として、下記の油を推奨しています。

 

第一位 魚油

第二位 バター

第三位 ラード

第四位 牛脂

 

魚油は分かるとして、バターだとか、ラード、牛脂が身体にいいというのは意外な気がしました。

 

最後に身体に悪い油も挙げておられます。

 

第一位 マーガリンなどの部分水素化したキャノーラ菜種油や菜種油

第二位 キャノーラ菜種油

第三位 パーム油

 

もともと飼料の副産物として大量に発生してしまう植物油を使わせたいがゆえにコレストロールという悪者をつくり、その悪者を倒すホワイトナイトとしてリノール酸を多く含む油が健康にいいとPRするのは、征韓論を思い出させます。リノール酸はコレストロールゼロというコピーとセットになっているケースが多く見られます。

リノール酸にコレストロールを減らすという効能があったとしても、他の部分で健康被害を与える成分が含まれていても「健康にいい」となるのでしょうか?

いろいろ考えさせられる内容でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

しっくりこない日本語(北原保雄)小学館新書(2017年)

 

言葉は意思伝達の道具なので、時代とともに新しい言葉が生まれ、日々変化していくものです。

最近、よく耳にする「生きざま」という言葉があります。

もともと、この言葉は「死にざま」から派生してできたものであり、本来は間違っています。

藤澤周平は「お金を積まれても使いたくない言葉だ」と吐き捨てるように言ったそうです。

小説家や文筆業を目指している方は、本来は間違っていたが、多くの人が使うようになったので、使用が認められるようになったといった言葉は使用すべきではありません。

 

今回ご紹介する「しっくりこない日本語」はそういったボーダーライン上の日本語を紹介しています。

目についた文をいくつか抜粋してみます。

 

★絆を深める

 「きずな」は、断ちがたい人と人の結びつきのことですが、本来は犬や鷹を繋ぎとめるために首にかける綱のことです。

「つな」ですから、「強める」「強い」「太い」などと言うのが正しく、「深める」などというのは当たらないということになります。

なお、「きずな」には、まだ語源意識が残っており、「き=ずな」と分けることができ、「ずな」は「つな」の連濁で「綱」であると言う意識があるところから、現代仮名遣いは「きづな」と書くことも許容されています。

 

★感動を与える

感動は自分がするものであって、他人が与えるものではありません。

また「与える」は多く上の者から下の者へ授ける行為にいうもので、他人に対して何かを「与える」というのは失礼な言い方です。恋人に対して「プレゼントを与える」とは言いません。

 

★今日、うちに来れる?

多くの人が、あまり気づかずに使っていますが、「来れる」は変で気になる言い方です。

正しくは、あるいは、本来は、「来られるか?」というべきです。「ら」が抜けているのです。いわゆる「ら抜き言葉」です。

 

★やらさせていただきます

これは、「やらせていただきます」というのが正しい言い方です。「さ」が余計で。「さ入れ言葉」などと呼ばれる言い方です。

 

★おっとり刀でかけつける

「おっとり刀」といっても、そんな刀があるわけではありません。刀を押っ取るように急いで取り上げること、押っ取るように取り上げた刀という意味です。

武家の時代に。急な事態が起き、腰に刀をさす余裕もなく、手に持ったままで現場に向かう場合に「おっとり刀でかけつける」

ということになるわけです。

 

★天地無用

「天地無用」の正しい意味は。上下を逆にしてはいけない。という意味ですが、この正しい意味に使っている人は、五十五・五%(平成25年度・文化庁)だそうで、上下を気にしないでよいという、正反対の意味に使っている人が二十九・二%、分からないという人が九・三%もいます。

 

時代小説を書いていると若い人から「表現が難しい」と言われることがあるのですが、天地無用という言葉さえ、これほど理解しない人が多いのでは、さらに古めかしいおっとり刀などという単語が「難しい」と言われてしまうのも無理がありません。

時代小説に限りませんが、「ら抜き言葉」のように今や市民権を得た表現であっても、物書きは自分の文章に書くべきではない(小説において、登場人物の話言葉の場合は別)と考えています。

あと「絆を深める」のような一見、間違いを見落としがちな表現を書いてしまった場合でも、ふと違和感を抱けるようになるといいと思います。

そうなるためには、やはり日頃からていねいに文を書くしかありません。

かく言うわたしも「絆」の表記は「きづな」だと思っていました。

「しっくりこない日本語」では「きづな」も許容されていると書かれていますが、ワードで変換を試みると「きづな」では「木綱」とは出ますが「絆」には変えてくれません。

日本語は奥が深いなあと再認識しました。

 

 

 

 

 

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男と女の一心不乱 加藤登紀子、森繫久彌 対談 加藤唐九郎 風媒社(1997年)

 

ひと言:陶芸家加藤唐九郎氏と加藤登紀子氏の対談、同じく加藤唐九郎氏と森繫久彌氏の対談を文字起こししたもの。松村覚進氏の永仁の壺事件に関する書物を読む前と読んだあとではまったく読後感が違った。

 

(以下抜粋)

 

一度高熱で上ったものが徐々にこう冷めて、長い時間かかって冷えていくところにやきものの味が出るからね。人間でもそうやと思うんじゃ。熱の一ぺん上がってない奴はだめなんじゃ。(唐九郎)

 

何ごともね、半狂乱にならなきゃ本当の仕事にならんと思うな。まだどっかに意識が働いとるうちはだめやと思うな。(唐九郎)

 

男が恋愛に陶酔できんのはね、どっかに意識が働くからいけないんじゃ。女はそれができるから幸福じゃと思う。(唐九郎)

 

女の場合なんかも、結局、理性的な面よりは直感的で感情的な面が強いから、気がつかないうちにそうなっててね、それでほれているうちはいいわけ。でもちょっと嫌いになると、今までの自分、変えてしまった自分をも嫌いになったりする瞬間があると思うんですよね。そうすると、よく男の人を嫌いになると、何で昨日まではあんなに好きだと思っていたのが、今日ある日突然耐えられなくなってという極端な別れ方をするんですよ、女の場合は。(登紀子)

 

あ、こんな思いをしたことがなかったと思えば、初だと思うのね。それをねえ、ずーっと持っているっていうのが、私は子どもっぽく見えるっていうことなんじゃないかと思う。(登紀子)

 

でも感情として沸き起こってくる、もっとこうなりたいと、一心不乱にその思いに染まりたいとかっていう思いが自分に出てきた時に、それを切り捨てないということが一番の解放感だと思うのね。(登紀子)

 

着て着心地の悪いもんで、着ておるその姿がいやな感じのする、そういうもの以外流行しないんじゃ。(唐九郎)

 

結局、デパートにしてもなんにしてもねえ、小説書いてもそうやけど、女をひっかけるより手はないんじゃ。(唐九郎)

 

結局、反体制的な立場におらなきゃ芸術というものは生まれてこないと思うんですね。時の権力に随従していたのでは、正しい芸術は生まれてこない。(唐九郎)

 

 

 

 

 

 

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書くことが仕事なので、読むものも多くなります。

でも、自由に読みたいものを読んでいるかというとまったくそんなことはありません。小説にかかわる資料読みが多く、読むものが偏ってしまいがちです。

いわゆる「積読」が溜まっていくばかりです。

寝る前に少しずつ読もうと思って枕の横に本を置いていたら、ベッドの壁側は本で埋まってしまいました。

これではいけないと思い、斜め読みでもいいから集中して読むことにしました。

斜め読みだけだと右から左へ抜けてしまうので、感銘を受けた部分を抜粋してみます。感想を入れたり、要約しようとすると、続かないような気がするので、多くの場合、抜粋のみに留めます。

 

まずは、

 

【「ゾーン」はここだ!】セルバ出版 (2009/10/15)

マイケル・ラーデン著 美甘章子・小倉智子翻訳 

 

ひと言:川上哲治氏は「調子がいい時にはボールが止まって見えた」と語っていたが、これが著者の主張する「ゾーン」に入った     状態である。スポーツで最高のプレーが行われた時の脳の状態を日常に生活に応用できないかという点について考察を加えている。自己啓発本とは一線を画す内容。

 

(以下抜粋)

 

簡単にいえば、ゾーンとは、思考と行動が完全に調和している精神状態のことである。

何かに深く夢中になっているとき、脳の働きは考える部分である大脳皮質を素通りし、原始的で反射的なレベルで実際に動いている。もし能動的に思考する脳(大脳皮質)が静かにしていれば、より早く効果的に反応(あるいは働く)することができ、経験上の時間の感覚を縮めることができる。

 

自分にとって何が正しいのかを心の中で分かっているのは自分だけであり、夢を信頼すること恐れに打ち勝つ勇気をもたらせてくれたのである。

 

私たちは夢から情報を得るだけでなく、偽りのない人生を送るための必要な力も得ているということである。

夢の世界との関係を築きあげると、自己と心と魂が結合するより深い部分との関係も築く。夢が私たちを方向づけひらめきを与え、自己実現に向かわせてくれるのである。

 

もし目標に辿り着くまでの道が見えて、それに必須な変数がコントロール可能であるなら、決して目標達成する能力を疑いはしなかったのだ。エリックは他人からの賞賛ではなく、自分の努力のみで自己を評価した。

 

多くの人たちにとって、決意を動力にする過程というのは容易なことではない。よくある障害の1つは、私たちは求める目標を美化してしまい、ゴールだけを見てその全体の過程を見ないことである。

 

能力が発揮されるのを邪魔するものは、意識のし過ぎなのである。

 

人生はたった10%が「何が自分に起こるか」であり、90%は「それにどう反応するか」ということだと認識することである。

どうにもならない出来事に影響されて自分を評価するのであれば、自信を傷つけるだけだ。人間の自信というものは本質的に非常に脆く壊れやすいものである。

もしどうにもならない要因とどうにかなる要因の両方が組み合わさって経験が成り立つということがわかれば、自信が付いていく機会が最大に増え、否定的な思考や感情に貴重なエネルギーを消費しないですむだろう。

 

つまり我々はどうにかなることに焦点を置くべきであり、どうにもならないことに心が駆られないようにしなければならない。

この能力を伸ばすためには、目標を選び、どの要因は自分の力で左右でき、どの要因が自分の力では左右できないものかをはっきりさせることから始める。

 

「結果」に注意を払いすぎず、やっていることの「過程」そのものにより注意を向けることで結局は結果が良くなることに気づく。

 

元来大事だったものを気にかけるようにする努力をし、一番楽しかったときに何が一番重要だったかに気づいてみよう。

複雑になってしまったものをもう一度単純なものに戻そう。比喩で表現すると、木を見ていても森があることを意識しよう。

他の誰も喜ばすことができなかったとしても、自分だけは絶対に喜ばせないといけないということを忘れてはいけない。

べス・ハイデン・リードのように。動機を単純なままにしておくことは宇宙工学ほど難しいことでも何でもない。答えは常に心が知っている。

だが、自分の純粋な動機を知るための道のりの間は、常にしっかりと地に足をつけて歩かなければならない。

 

目標が高ければ高いほど、動機はより純粋なものでなければならない。

 

神を信じようと信じまいと、生命の力を理解できる者なら信念の力を利用できる。

 

一番抵抗の少ない道を選んではいけない。その道は転機を導かないし、人生を変えることはないだろう。変化がなければ人生は平凡であり、貴重な時間を無駄にしながら自分では何も成し遂げることなしに、他人の成功等を見て娯楽を得るだけの人生になってしまうことが多い。

大地をしっかり踏みしめながら夢を見ること、そして近道はないことを理解することである。

 

ゾーンを見つけるために遠く幅広く探る必要なないのである。既に自分の中にあるものを抱擁することである。情熱をもたらせてくれる物事に一生懸命取り組めば取り組むほど、人生の経験は豊かなものになる。

 

 

 

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