前々回から試みている対談方式を小説の書き方についても適用してみようと思います。

どうか、お付き合いのほどを。

 

登場人物

ギギ:30代女性、俳優の卵だが、小説家になる野望を抱いている。

田中昭三:60代。ギギの父親でプロの小説家。

 

ギギ:ところで、小説を書くに当たっていいテキストはないかな?

昭三:小説にハウツーは当てはまらない。ハウツー本を読んで書けるような技術ほとんどがAIに取って代わられるだろう。まずは、名作と呼ばれる小説を数多く乱読することだ。

ギギ:そういうことを言う小説家って多い気がするな。でもシャチョーの本棚にはずいぶん小説の書き方みたいな本が多いように思うけど。

昭三:俺は添削も行っているからその時の参考にしているんだ。

ギギ:そうかなあ。添削を始める前からあったじゃない。技術論を隠そうとしているんじゃない?

昭三:そこまで言うなら、一冊選んでやろう。「海燕」や「野生時代」の編集長だった根本昌夫さんが書いた「実践 小説教室」(河出書房新社)という本だ。

ギギ:なんともダイレクトなタイトルね。

昭三:この手の本はあまり凝らないのが鉄則になっているようだ。

ギギ:どんなところがすぐれているのかしら?

昭三:おい、そんなことまで聞くのか。まあ、紹介ついでに話してやる。この本の優れているのは、単なるハウツーではなく、根本さんの経験に根差した深い小説哲学というものが分かりやすく書かれている点だ。たとえば、小説についてはこう書かれている。

小説を書くとは、心の中で感じたり、思ったり、考えたり、思い出したりしたことの中から、大切なものを、表現することなのです。

純文学に限らず、エンタメ小説でも「自分の大切なもの」というものを小説の中に内包させていなければならないんだ。

ギギ:ふーん。どの小説家もそんなことを考えているとは思えないけどな。小説家に向いている人というのはいるのかな?

昭三:ああ。根本さんはこう書いている。

小説家というのは、社会への適応能力がありながら、その実きわめて感受性が強く、内面に葛藤を抱えながらも社会生活に努めて適応している人たちだということを言ってきました。読者の共感を呼ぶ作品が書けるのも、その葛藤ゆえなのでしょう。

つまり、努力せずとも社会に適応できている人たちはおそらく小説を書く必要を感じてもいないでしょう。

また、社会に適応できない自分が正しく、社会のほうが間違っている思っているような人も、小説家にはあまり向いていないように思います。

ギギ:確かにシャチョーを見ていると、根本さんの話が当てはまるわね。具体的な話はどう?

昭三:面白いなと思ったのは、まずプロットについての考えだ。

「起承転結」や「破序急」は、書き進めるための一つのエンジンにはなりますが、それにしばられると窮屈なものになったしまうのです。

 

設計図は一応考えるものの、その通りに書けた作品は案外つまらないものになる。

ギギ:設計図というのがプロットのことね。起承転結もあまり考えなくていいのかな。

昭三:いや、まだ小説を書き慣れないうちは起承転結は常に考えたほうがいい。あくまでも「しばられない」ほうがいいのであって、考えなくていいということじゃない。キャラクターについての話も興味深い。

自分が作った登場人物は最後まで面倒をみて、小説を書き終えてからも『今ごろ何をしているんだろう』と考えるくらい、大切にする。

ギギ:登場人物を将棋の駒のように作家の勝手でうごかしてはいけない、というのは聞いたことがあるわ。もう一つだけいい部分を引用してよ。

昭三:分かった。書き出しの部分についてだ。

意識したほうがいいのは、読者を日常から脱出させる書き出しになっているかどうかということです。

アマチュアの小説は驚くほど、ダラダラとした書き出しが多いからこれはとても大事な指摘だと思う。

ギギ:確かに読みたくなってきたわ。その本を貸してちょうだい。

昭三:本というのは自腹を切って買ってこそ、中身が身につくんだ。自分の金で買え。

ギギ:ケチ! 

昭三:ここまで懇切丁寧に教えてやったのにケチとは何だ! いいか本を買うにしても中古で買うんじゃないぞ。それは著者に対して失礼だからな。だいいち―――(以下フェイドアウト)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

架空座談会「ソング・サング・ブルー」を観て

 

 

ギギ:矢継ぎ早の座談会ね。

昭三:ああ。忘れられないうちには、最初に露出を多くしておかないとな。

ギギ:選んだ映画が「ソング・サング・ブルー」じゃ地味じゃない?

昭三:何を言ってるんだ。ヒュー・ジャックマンとケイト・ハドソンが組んでニール・ダイヤモンドの物真似歌手を描いた感動作だぞ。

ギギ:ヒュー・ジャックマンは知っているけど、ケイト・ハドソンもニール・ダイヤモンドも知らないわ。

昭三:それで俳優の卵と言えるのか。ケイトは女優・ゴールディー・ホーンの娘だ。2000年公開の「あの頃ペニーレインと」でみずみずしい演技を見せた。あの映画はよかったなあ。ニール・ダイヤモンドは1974年公開の「カモメのジョナサン」のサントラも担当した大物歌手だ。

ギギ:2000年はともかく、1974年なんて、わたしの生まれるはるか昔の話じゃない。わかるわけないわ。

昭三:ビートルズやエルビスが残るように古くてもいいものは残る。

ギギ:そんなに唾を飛ばさないでよ。それでこの映画はどうだったの?

昭三:また最初に結論ありき、か。こいつは、いい映画だ。

ギギ:なにそれ? プロの小説家の感想とも思えないけど。ほめているの?

昭三:ほめてもいるし、ほめてもいない。

ギギ:謎掛けはいらないわ。

昭三:見終わったあとは「いい映画を観たな」と思うんだが、何日かすると忘れてしまう、そんな映画なんだ。

ギギ:じゃ、いい映画ではないじゃない。

昭三:映画に何を求めるかは人によって違うが、記憶に残る映画が必ずしもいい映画とは限らない。アクション映画もストーリーを忘れてしまうから、何回も観ることができる。名作と呼ばれる映画は得てして何回も繰り返してみる気にはならない。この映画も忘れたころにまた観たくなる映画だ。

ギギ:ふーん、そんなものかしらね。分かったような、分からないような説明だわ。話の展開はどうなの?

昭三:「スマッシング・マシーン」と同じように、この映画も実話を元にしている。元にしている、というより、ほとんどが実話だ。小説にしたらあり得ないような展開だが、実話だから何も言えない。最初は売れない物真似芸人マイクの再生物語、次はその妻クレアの再生物語になる。後半は暗くなりそうな場面が多いが、ぎりぎりのところで暗くなりすぎずに切り抜けているのは見事な演出だと思う。

ギギ:わたしは十分暗いと思ったけど。怪我と貧乏と病気の三重苦じゃない。

昭三:でも最後には救いが用意されている。これはひとつのハッピーエンドだ。それより、個人的にはもっと歌が挿入されていてもよかったと思うな。

ギギ:確かに主役のふたりは歌が上手いと思ったけど、曲がねえ・・・。

昭三:「スイート・キャロライン」はよかっただろう。

ギギ:途中でバイカーの集団が「ニール・ダイヤモンドなんてダサくて聞けない」と言っていたけど、わたしも同じ気持ちだわ。

昭三:そんなことを言うならニール主演の「ジャズシンガー」を観てみろ。感動するぞ。

ギギ:気が向いたらね。それよりコロッケの動画を観たくなってきたわ。

昭三:ニールとコロッケを一緒にするな。ニールは世界で1億3千枚以上のアルバムセールを記録してだな―――(以下、フェイドアウト)

 

お勧め度

ギ  ギ:★★★  60点 

田中昭三:★★★★ 80点

 

 

 

 

ソング・サング・ブルー公式HP

 

 

SONG  SUNG BLUE DOCUMENTARY

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

架空座談会「マテリアリスト 結婚の条件」を観て

 

今回から映画レビューを映画を観終わった人同士の対談という形で書いてみたいと思います。

 

座談会参加者は、小説家志望のギギ(30代・女性・父親のことを「シャチョー」と呼ぶ)とその父親で作家の田中昭三(60代・男性)です。

ふたりの詳しいプロフィールは こちら をご覧ください。

 

また、今回の試みの感想、ご意見などをコメント欄に記入くださると幸いです。

 

 

田中:昨年、ハリソン・フォードが映画界から引退を発表したじゃねえか。あいつにはおどれいた。

 

ギギ:その時代劇の岡っ引きみたいな話し方はなんだって言うの。

 

田中:時代小説を書く以上、自分が話す言葉にも責任を持つべきだと思ってな。

 

ギギ:バイオレンス小説を書いている人は乱暴な口調で、ロマンス小説家は甘ったるい言葉を使っているわけじゃないわ。初登場だからと言って、自意識過剰よ。

 

田中:前から思っていたんだが、おめえは長幼の礼がなってねえな。

 

ギギ:難しい言葉を発して相手をやりこめようとするのは、シャチョーの悪い癖よ。それより、今日は「マテリアリスト 結婚の条件」の話をするんじゃなかったの。

 

田中:落語にも枕と言うものがあってだな―――

 

ギギ:現代人はまずは結論ありき、よ。悠長なことを言っているのは年寄りだけよ。

 

田中:ひでえ言い草だ。ならば結論を言うが、現実と理想がごっちゃになった中途半端な映画だ。

 

ギギ:そうかな? わたしはロマンチックないい映画だと思ったけど。

 

田中:まあ、この映画をいい映画とみるか、悪い映画とみるかは性別や年齢による。多くの男性はあまり楽しめないんじゃないか。自分が評価されているような気がするからな。ハリーのように1200万ドルの家に住める人間はなかなかいないし、ジョンのようなイケメンも滅多にいない。

 

ギギ:映画がメルヘンになるのは仕方ないんじゃないかな。

 

田中:メルヘンだとしても、この映画ではディテール、つまり設定が甘すぎる。ルーシーと元恋人ジョンは結婚式場で客とアルバイターという立場で久しぶりに再会するが、ふたりは別れてからどうして暮らしていたんだ。彼氏、彼女もお互いにいなかったままだったのか。

 

ギギ:いろんな変遷があって、いまは互いにパートナーがいない状態なんでしょうね。その辺りはぼかしておいていい話よ。

 

田中:じゃあ仕事はどうだ。ルーシーは結婚紹介所に勤めだして何年になるんだ。遣り手のマッチメーカーと言われているが、客に訴訟を起こされてものすごく動転してしまう。それじゃまだ新人に毛が生えたようなものだ。それなのに映画の終わりでは支社長への就任を打診されている。

 

ギギ:年齢も30代半ば、年収も8万ドルというから中堅社員よ。顧客に訴えられるというケースがレアだけじゃない?

 

田中:では役者のジョンはどうだ。同じ30代半ばで貯金2000ドルって、ちょっとひどすぎないか。もうひとりのハリーもよく分からない。何代かにわたる金持ちで、たいした仕事をしていないのに裕福。なのに独身。ルーシーとは一回り以上も年齢が違うが、その点を誰も口にしないで「ユニコーン」(特別優れている)だと言う。不思議じゃねえか。

 

ギギ:役者の良しあしは貯金の多寡で判断されないわ。それにハリーもいろいろあったんじゃない。この手の話だと金持ちは年寄りというのがパターンよ。

 

田中:だとすると、たまたま映画の時点では誰もが独身でパートナーもいなかったというのか。もてそうな色女と色男が出てくるわりに都合のいい話だ。

 

ギギ:そんなことを言ったら映画が成り立たなくなるわ。昔からハリウッド映画にはいい男といい女がでてきて、突然恋が始まるものよ。

 

田中:アクション映画の中の恋愛シーンだったらそれでもいい。だが、この映画は正面から結婚に向かった作品だからこそ登場人物のディテールは大事なんだ。何もくどくど描く必要はないが、きっちり決めておかないと映画に深みがでない。

 

ギギ:なんか長くなりそうだから、話題を変えるわ。小説家から見て、ストーリーはどうなの?

 

田中:起承転結の起承はよくできているが、転結がイマイチだな。

 

ギギ:わたしは、あのハッピーエンドが気に入ったわ。この手の映画にあっと驚くどんでん返しを求める人はいないわよ。

 

田中:俺もハッピーエンドはいいと思うし、この映画に哲学的な問いは求めていない。だが、ルーシーがジョンを選んだ理由がよく分からない。ハリーの高身長手術の痕を見て、恋が冷めるというのもどうかと思う。映画の最後で結婚紹介所の客が見た目や年収よりも性格重視に変わったという描写があるが、ルーシーは見た目でパートナーを選んだようにしかみえない。

 

ギギ:それはひがみ目ね。ジョンは性格がいいうえに、見た目もいいのだから、仕方ないじゃない。ジョンの求愛に押し切られたのだから、マテリアリスト(実利主義者)も、最後は実利ではなく愛を取ったということになるわね。

 

田中:そんなあいまいなことじゃ、ふたたび破局しそうに思っちまうけどな。ところで映画の中ではケミストリーという言葉がよく出てきた。俺は化学変化みたいな意味だと思っていたんだが、相性という意味らしい。この映画では、結局は結婚は相性が大事だと言いたかったのかもしれない。

 

ギギ:相当ひねくれているとしか思えないわ。ところで、なぜハリソン・フォードの話から始めたの?

 

田中:ルーシー役のダコタ・ジョンソンの母親はメラニー・グリフィスなんだが、ハリソン・フォードと共演した「ワーキング・ガール」の好演がよかったなあ、と思い出したんだ。

 

ギギ:シャチョーは、メラニー世代で、わたしはダコタ世代と言うことかしらね。このロマンチックな映画をロマンチックに観れないなら、ハリソン・フォードと同じでそろそろ引退かもね。

 

田中:ウルセー!

 

 

お勧め度

 

ギギ ★★★★ 80点

 

田中 ★★☆  50点

 

 

 

「マテリアリスト 結婚の条件」HP

 

 

 

 


 

 

新キャラクターのご紹介をします。

 

頻度はまだ分かりませんが、このおふたかたにブログの進行を手伝ってもらおうと思っています。

 

とりあえずは近日中にアップする映画評に登場します。

 

乞うご期待!

 

 

 

ギギ:本名、年齢、体重非公開。ただオウム真理教によるサリン事件の年に産まれたとの発言から30代前半であるのは間違いない。

俳優を志していたが、脚本執筆の手伝いをしたところから創作の面白さに取り憑かれ、現在は小説家を目指している。

しかし、俳優の夢を捨てたわけではない。好奇心旺盛でとにかくいろいろなものに首を突っ込む。

当然のように婚期は遅れ、いまだに独身。

田中昭三は実の父親であるが、シャチョーと呼んでいる。

佐々木蔵之介と共演した(実際はエキストラに毛の生えたような脇役)のが自慢。

ニックネームの由来は、高校生のとき、ジブリ好きで特に「魔女の宅急便」のジジが好きだったため、カバンにジジのプレートを付けていた。その裏に「GIGI」と書いていたのだが、ジジは正しくは「JIJI」である。このことをからかわれ、それからギギと呼ばれるようになった。最初は嫌だったが、すぐに開き直り、自分でもギギを名乗るようになった。超楽観的。


 

 

田中昭三:本名同じ。小説家。ギギの父親。アラ還。妻と死別して、もっか独身。自覚していないが、理屈っぽいところがあり、 

よくギギにからかわれる。

ジジイのくせにジジイだと自覚していない困ったジジイ。

テレビドラマの「翔んだカップル」の馬鹿らしさに衝撃を受け、喜劇小説を書こうとするがすぐに挫折する。

長いブランクを経てハードボイルド作家を志すが、これも挫折。

挫折に挫折を重ね、現在は時代小説を書いている。

趣味は水泳とアルコール。

永遠のヒーローは轟次郎。ヒロインはもちろん桂木文である。

なんとなく本ブログの主宰者である木村忠啓に似ているような気もするが、まったく架空の人物である。

 

 

 

     

 

 

北村透谷は、9月に明治と元号を変えた1868年12月、小田原で生まれました。

詩人であり、評論家として明治の文学界に大きな影響を与えた人物です。

 

透谷の文学観とはどのようなものだったのでしょうか?

透谷は、井原西鶴に代表される元禄文学を嫌いました。

 

恋愛至上主義の透谷は、

 

恋愛とは盲目なるものである。盲目になり、痴愚になり、躁狂になり、迷乱するところに恋愛の神髄がある。

それに対し、元禄文化は盲目にならざるを尊び、迷わざるをもって粋の本旨とする。

相手を迷わせても自らは迷わないことを法とする。

 

と、主張して、元禄文学は罪であるとしています。

この粋とは「すい」と読むのですが、真剣な愛情の前に強力なジャマが立ちふさがった場合、徹底した好色の道をとることを言います。

これに対して、禅的な悟りをもって愛そのものから超越した道をとることを「風流」と言いました。

透谷は「粋」だけでなく「風流」をも否定しましたが、「風流」には同情的です。

透谷が高く評価したのは真摯ば愛を描いた近松門左衛門でした。

これは文学論というより、恋愛論のような気がします。

 

また明治期には史伝(歴史)の流れを汲む徳富蘇峰や山路愛山といった文人がいたのですが、透谷は彼らとも鋭く対立しています。

蘇峰は「文章は経国の大事業なり、不朽の盛事なり」と言い、愛山は「文章はすなわち事業なり。文士が筆を振るうのは、剣士が刀を振るのと同じだ。やるべきことがあるからだ。世に益をもたらすためだ」と言います。

 

透谷は元禄文学や幸田露伴、尾崎紅葉といった人々を虚想派、瀧澤馬琴や蘇峰や愛山らを実際派と呼び、ともに否定します。

ただ、虚想派の作品は「慰め」、実際派の作品は「世の中を知る」という効用があると認めます。

透谷はこれらふたつが統合されれば、いいと考えるようになるのです。

 

なんだか難しい話になってきましたが、要は「面白くてためになる」小説がいいということです。

現代でも「純文学」と言われるジャンルと「エンタメ小説」と呼ばれるジャンルには溝がありますが、透谷はその溝はいらない、とっているわけです。

よくみていくと、かなり斬新な考えです。

 

 

 

 
 

 

 

 

 

いま、源了圓先生の「実学思想の系譜」という本を読んでいます。

不勉強の自分にとってはたいそう難しい本で哲学辞典を片手に読んでいるので、なかなか先に進めません。

 

その本の中で、松尾芭蕉の言葉を弟子が書いた「山中問答」から引用されている部分があります。

 

虚実に文章あり、世知弁あり、仁義礼智あり、虚に実あるを文章といひ、虚に虚あるものは稀にして、正風伝習の人とする

 

???

なんだか難しい言葉です。

何回読んでも意味がよく分かりません。

 

でも本の前の部分を読み直していくと、おぼろげながら意味が分かってきました。

 

まず実というのは事実とか真実と捉えていいと思います。

事実は大事であるけれど、そればかりに拘っていると、心が自由に働かなくなります。

一度、事実から離れてみると、物事がよく見えるようになる場合があります。

物への付着、とらわれから心が自由になった状態が虚なのです。

調べたり、検証した事実と心で感じた気持ちと言い換えることもできます。

そこからちょっと捻って考えると、実とはテクニック、虚はテクニックから離れて書くこととも言えるかもしれません。

 

こう考えて、意訳してみます。

 

思いとテクニックが組み合わさって文章はできる。

日常の文章も格式ばった文章も同じだ。

感じたままをしっかりテクニックを用いて書いたものを文章という。

しかし、感じたままをを感じたまま書いた文章がわたしの理想とするところだ。

 

こう書くと、

「じゃあ、子供の書いた文が一番、いいんじゃないか」

 という疑問もわきます。

 

芭蕉は別のことろで、こんなことも言っています。

 

松のことは松に、竹のことは竹に習うのがよい。

この「習う」というのは、そのものと一体になるということだ。

一体となって、ものの気持ちを感じ取れたときにいい句ができる。
たとえうわべを飾っても、ものと一体になっていないでつくった句は偽物にすぎない。

 

こうみてくると、芭蕉の言っているのはテクニック不要論ではなく、テクニックよりも、感じる能力のほうが上だと見ているのだと分かります。

俳句と小説は違いますが、共通点はあります。

アマチュアの人の小説を読んでいると名文を書こうとする意識の強すぎる人が多いように感じます。

小手先のテクニックは目の肥えた読者には看破され、敬遠されます。

背伸びしないで書いた文章が好まれると思います。

芭蕉の言葉を読んで、そんなことを思いました。

 

 

 

 

 

 

 

映画「スマッシング・マシーン」は総合格闘技の黎明期といえる1990年代に現れ「霊長類ヒト科最強」と謳われたマーク・ケアーの半生を描いています。

主演は、「元スタープロレスラーの」という肩書が霞むほど大スターになったドウェイン・ジョンソン。

プロレス好きのわたしとしては、とても楽しみにしていた映画です。

 

この映画は2002年に製作されたドキュメンタリー「The Smashing Machine」を下敷きにしています。

まるでドキュメンタリーをなぞったかのような冒頭のシーンから始まります。

その後も、ドキュメンタリーにそっくりなシーンが続きます。

どこかで映画ならでの展開になるのだろうと思っていたのですが、なんと最後までドキュメンタリーと同じような展開。

まるで「The Smashing Machine」を単にリメイクしただけのような表現には疑問を抱いてしまいます。

 

フレディ・マーキュリーを描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」(2018年)から、実在した人物を物真似レベルまで似せて演じるのが映画界での主流になっているように思います。

映画には映画でしか描けない世界があるのですが。

 

映画にしろ、小説にしろ、テーマが必要だとわたしは思っています。

その点、この映画にはテーマがないと感じました。

マーク・ケアは、薬物使用をやめて再起し、勝利を収めるのですが、映画はそこで終わらず、二戦目の敗戦も描きます。

その敗戦はマーク・ケアの精神的な部分によるところが大きかったという描き方ですが、そこから得られる結論じみたものはありません。

ドキュメンタリーとは違うのだから、取捨選択をしてもいいのではないのでしょうか。

 

元プロレスラーのドウェインがマークを演じるので格闘シーンも迫力満点。

と言いたいところですが、プロレスと格闘技は似て非なるもの。

いまひとつ迫力が伝わってきません。

 

気になる点もあります。

試合結果を変えている部分があるところです。

なぜここまでドキュメンタリーに忠実なのに、試合結果という事実を変えてしまったのでしょうか。

(エンセン井上戦は、KO勝ちではなく、判定勝ち)

 

舞台は1990年も終わりを告げるころ。

日本では空前のバブル景気が起こり、その風船が弾けたころです。

そんな時代に湧きおこったのが、総合格闘技ブーム。

ボクシングの真剣勝負の持つスポーツ性とプロレスの華やかさがうまくミックスしたのが原因です。

レスリングを主体としているので、当初はプロレス寄りの傾向があったのですが、ブラジリアン柔術のグレーシー一族の活躍で、にわかに新しい格闘技としての色合いが出てきました。

ルールもころころと変わり、クレバーでないと勝てない競技でした。

桜庭選手というクレバーな選手が活躍したのも、時代の間隙を縫ったと言えます。

 

総合格闘技には深い闇があります。

薬物の使用に関しての規定です。

最近ではUFCのように薬物の使用に関して厳格な団体もありますが、黎明期の格闘技界においては、薬物の使用は常識でした。

マークも倒れるようなことがなければ、薬物を使用し続けたと思います。

彼はやむなく薬物の使用をやめ、その分をトレーニングにて補おうとしました。

闇というのはこの部分です。

格闘技の主催者は派手なKOシーンを求め、選手の薬物使用は黙認してきました。

薬物は人間の身体にひどいダメージを負わせますが、見返りも絶大です。

他の者が薬物を使用しているのに、自分だけが使わないのは最初からハンデを背負っていることになります。

マーク・ケアーは身体が限界にきて、薬物使用をやめるのですが、その後勝てなくなったのは、他の選手の中に薬物を使用する者が多かったからでしょう。

 

この闇を深く描いてもよかったし、もっとエンタメに徹してもよかった映画です。

中途半端というより、ドキュメンタリーとそっくりで、もったいな、という感想です。

 

お勧め度 ★★☆ (50点/100点満点)

 

The Smashing Machine

 

 

 

 

 

 

 

 

「マーティー・シュプリーム」を観ました。

 

感想を一言で言うと「うーん、残念!」。

感動的な題材を扱っているのに、どうしてこうなってしまったんだろう。

ストーリーとしては、アメリカ卓球チャンピオンの主人公・マーティーが日本人選手のエンドウに負け、その雪辱を晴らすというもの。

スポーツ映画の王道です。

が、しかし。

マーティーのダメっぷりがいつまでたっても改善されず、最後まで自己中心的な人物として描かれます。

マーティーを演じたティモシー・シャラメは知的な雰囲気を持つイケメンでそこそこ魅力的なのですが、この映画ではずる賢そうにしか見えません。

「最低でサイコーな男」というキャッチコピーも、人を利用することしか考えていない「サイテー」な男のような印象しか残らない内容なのが残念です。

 

「愛しのローズマリー」に主演して魅力を振りまいたグウィネス・パルトローも自らCEOを勤める問題団体「Goop」の仕事が忙しいからだけではないでしょうが、年寄っぽくて全然魅力的でないし、ヒロイン役のオデッサ・アザイオンも間抜け、危険な人物を演じるアベル・フェラーラのサイコっぶりも中途半端。

ダメ人間ばかり登場します。

唯一お救いは、身びいきかもしれませんが、日本人選手・エンドウです。

エンドウを演じた川口功人はデフリンピック銅メダリスト。本物の魅力をきらりと光らせています。

 

パンフレットには、

 

「マーティーが世界を股にかけて起こす大騒動は、やがて熱を帯びながら心揺さぶるドラマへと変容していく」

 

とありますが、「世界を股にかけて」といってもマーティーが行った「世界」とは、日本だけだし、ちっとも「心揺さぶ」られませんでした。

 

ジョシュ・サフディ監督はディズニーのスポーツ映画が嫌いで、違う印象の映画を作りたかったのだと思います。

 

でもこの映画で主人公が必死になっているのは金策に走り回ることで、肝心の卓球を頑張っているシーンは皆無です。

 

スポーツ時代小説家としては、ベタでも主人公がスポーツで頑張っている姿を観たかったなあと思います。

 

お勧め度 ★★ 40点

 

 

 

 

 

 

ラストエンペラーも天誅組の変も歴史に詳しくない方だったら、聞いたことはあるけど、なんだっけ?といった反応ではないでしょうか?

 

ラストエンペラーとは、満州事変の勝利により日本が作った傀儡国家・満州国の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかぐらふぎ)です。映画にもなったので、名前は知っている人は多いと思います。

ちなみに、自分はいつも愛染かつらふぎと間違えて言ってしまうのですが、失礼ですね。

 

天誅組の変は、公卿中山忠光を主将に、松本奎堂、吉本寅太郎ら志士が討幕を意図して文久三年(1863年)奈良の五條で起こしたクーデターを言います。倒幕の先駆けと呼ばれる事件です。

 

ラストエンペラーと天誅組というと、まったく接点がないような気がしますが、意外なところでつながっています。

 

溥儀には溥傑(ふけつ)という弟がいました。

溥傑は初婚に失敗して、二人目の妻に日本人を迎えました。

関東軍の意向もあったようですが、溥傑は嵯峨浩(さがひろ)という皇族の女性と結婚することになります。

この方は、とても整った顔立ちをしています。

写真はこちらです。

 

 

育ちの良さを感じさせる上品さが漂っています。

実は中山忠光の娘と嵯峨家の男性との間にもうけられたのがこの嵯峨浩さんのおじいさんとなります。

つまり、嵯峨浩さんは中山忠光のひ孫となるのです。

たしかに、中山忠光も整った顔立ちをしています。

 

 

忠光が白馬に乗る姿を見て、その格好良さに五條の女性は歓喜の涙を流したと言われていますが、さもあらんと思います。

天誅組の変というと忠光が担ぎ出されたように思う方も多いと思いますが、実際は

激情家の忠光はかなり強い自らの意思で、このクーデターに参加したようです。

 

時代のうねりという運命に翻弄されたかのような溥傑と浩でしたが、夫婦仲はよかったと言われています。

終戦で溥傑と浩は中国と日本に離れ離れになります。

浩は日本でふたりの娘と暮らしましたが、不幸に見舞われます。

学習院大学に在学中だった娘の慧生が静岡県の天城峠でピストル心中を図ったのです。

 

 

しかし、運命の神様は、浩を不幸の中に放っておくことはしませんでした。

中国首脳陣から、1960年に16年ぶりに溥傑と再会を許されたのです。

念願の再会を果たした浩は北京に住み、質素ながら仲睦まじい暮らしを送りました。

そして、溥儀に看取られながら1987年に亡くなりました。

 

時代に弄ばされたような一生でしたが、最期のひとときを愛する人と一緒に過ごせたのは幸せだったのではないでしょうか。

人の幸せとは、他人が推し量るものではなく、本人の気持ち次第。

自分で自分の一生は幸せだったと思えるような生き方をしたいものです。

 

 

 

惜しい!というのが正直な感想です。

 

あと一歩で勝利するのに、どこかで手順を間違えてしまって、勝てる勝負を引き分けに持ち込まれた、という感じの映画です。

一番の原因はストーリーが二股に分かれてしまっているからだと思います。

予告編などを見ると、ブレンダン・フレイザー演じるフィリップと少女ミアとのやり取りを中心にストーリーが展開していくのだと思っていたのですが、そうではありません。

途中、いくつものエピソードが挿入されるのですが、そのうちのもっとも大きなものがミアとのやり取りと柄本明演じる老俳優・長谷川とのやり取りなのです。これがストーリーの二股化です。

個人的にはどちらかひとつに絞ったほうが良かったのではないかなあ、と思います。

ストーリーの中心が分散することによって、感動の度合いが薄れてしまいました。

 

ウェットにならず、ドライ気味の演出というと、同じ東京を舞台にしたソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トランスレーション」が思い出されます。

そういえば、どことなくブレンダンフレイザーとビル・マーレイは似ているところがあります。

HIKARI監督は、お涙頂戴の映画にはしたくなかったのでしょうが、観客の側からすると、ベタでも泣かせてほしかったですね。

ともあれ、ブレンダン・フレイザーの演技は素晴らしい。

人生の奈落を味わった人にしか出すことのできない演技が光ります。

 

小説家として気になった点もあります。

ひとつめは、伏線の張り方の甘さです。

甘いというか、そもそも伏線を張っていないので、ご都合主義のように感じられる場面がありました。

たとえば、ミアがフィリップの正体を見破る場面。

あそこは、ぜったい歯磨きのコマーシャルを使うべきです。

そうすれば、前段のコマーシャルのシーンが生きてきます。

 

ふたつ目は、個人の抱える悩みが無視されている点です。

フィリップの悩みは売れない俳優であるところ。

やっと大きなオファーが来たのに、何の葛藤もなく(少なくとも私にはそう見えました)断っているのは不自然です。

ミアもいつのまにか、フィリップを受け入れているし、心に深い闇を抱いていそうなレンタルファミリー会社の社長・多田の悩みもまったく語られる場面がありません。

長崎に行った長谷川が壺(?)を掘り起こす場面も心理描写が甘いせいで、感動的ではありません。

その辺が実に、惜しい!のです。

とはいえ、発想は面白いし、前述したようにとにかくブレンダン・フレイザーの演技が素晴らしいので、一見の価値あり、です。

 

お勧め度 ★★★ 60点