惜しい!というのが正直な感想です。

あと一歩で勝利なのに、どこかで手順を間違えてしまって、勝てる勝負を引き分けに持ち込まれた、という感じの映画です。

一番の原因はストーリーが二股に分かれてしまっているからだと思います。

予告編などを見ると、ブレンダン・フレイザー演じるフィリップと少女ミアとのやり取りを中心にストーリーが展開していくのだと思っていたのですが、そうではありません。

途中、いくつものエピソードが挿入されるのですが、そのうちのもっとも大きなものがミアとのやり取りと柄本明演じる老俳優・長谷川とのやり取りなのです。これがストーリーの二股化です。

個人的にはどちらかひとつに絞ったほうが良かったのではないかなあ、と思います。

ストーリーの中心が分散することによって、感動の度合いが薄れてしまいました。

ウェットにならず、どちらかというとドライ気味の演出というと、同じ東京を舞台にしたソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トランスレーション」が思い出されます。

そういえば、どことなくブレンダンフレイザーとビル・マーレイには類似点があるようです。

HIKARI監督は、お涙頂戴の映画にはしたくなかったのでしょうが、観客の側からすると、ベタでも泣かせてほしかった気がします。

ともあれ、ブレンダン・フレイザーの演技は素晴らしい。

人生の奈落を味わった人にしか出すことのできない演技が光ります。

小説家として気になった点もあります。

ひとつめは、伏線の張り方の甘さです。

甘いというか、そもそも伏線を張っていないので、ちょっとご都合主義のように感じられる場面がありました。

たとえば、ミアがフィリップの正体を見破る場面。

あそこは、ぜったい歯磨きのコマーシャルを使うべきです。

そうすれば、前段のコマーシャルのシーンが生きてきます。

ふたつ目は、個人の抱える悩みが無視されている点です。

フィリップの悩みは売れないところ。

やっと大きなオファーが来たのに、何の葛藤もなく(少なくとも私にはそう見えました)断っているのは不自然です。

ミアもいつのまにか、フィリップを受け入れているし、心に深い闇を抱いていそうな社長・多田の悩みも語られる場面がありません。長崎に行った長谷川が壺(?)を掘り起こす場面も心理描写が甘いせいで、感動的ではありません。

その辺が実に、惜しい!のです。

とはいえ、発想は面白いし、前述したようにとにかくブレンダン・フレイザーの演技が素晴らしいので、一見の価値あり、です。

 

お勧め度 ★★★☆ 70点

 

プロレス団体に「BASARA(バサラ)という団体があります。

代表の木高イサミ氏は「派手な格好をして体制に反抗するとか、そういうプロレスをやっていきたい」のでこの名前にしたと語っているそうです。

バサラとはこんなイメージだと思います。

 

バサラ傾奇者(かぶきもの)とごっちゃになることが多いのですが、年代が違います。

傾奇者は、若き日の織田信長だとか、前田利家前田慶次といった戦国時代に現れました。

それに対し、バサラ大名が活躍したのは室町時代です。

 

傾奇者ですが、人気の高い前田慶次にしても文武に優れていたとされますが、文のほうの実績はよくわかっていないし、身なりについても具体的に書かれている資料はないようです。

信長に関しては、父・信秀の葬式の時の格好が記されています。稲穂で作った縄で両刀を巻き、髪は茶筅にして、袴を着用していなかったといいます。

たしかにオリジナリティはあるかもしれませんが、洒落者ではないように思います。

 

いっぽうのバサラ大名はどうでしょうか?

北条明直さんという方が書いた「いけばな人物史」という本があります。

 

道誉は、京極高次とも言い、室町幕府の権力の中枢にいた人物です。

その道誉の姿が「太平記」に書かれています。

家臣はみんな猿の皮でできた靭(うつぼ・矢をいれる道具)、腰当をして、鶯の入った鳥かごを手にしてた」とあります。

なんとも奇妙ないでたちですが、これは能楽でも演じられた当時では最先端の格好だったそうです。

傾奇者が破れたジーンズを履いていたのなら、バサラ大名はブランド品でばっちり決めている感じがします。

 

次にバサラ大名の文のほうですが、茶道の千利休は「数寄道大意」には「京極道誉、群を抜きんでて茶香を賞す」とあります。

また「太平記」では「都には佐々木佐渡判官入道道誉をはじめとして、在京の大名、衆を結んで茶の会を始め、日々寄り合う

とあります。また連歌の世界でも一家言を成すなど、文化人でもリーダー格でした。

 

バサラとは、サンスクリット語で、bajraと書き、もともとは金剛という意味です。

「いけばば人物史」によると、バサラとは、

 

音楽や舞楽で本来の拍手と外れて目立つようにしたことを言い、そこから派手に目立つようにすること、さらには遠慮会釈なく振舞うこと、身分を越えて贅沢すること意味する言葉となった。

 

とあります。

 

バサラ大名としては道誉と同様、幕府の要職者だった高師直(こうのもろなお)土岐頼遠(ときよりとう・美濃の守護大名)の名が挙げられます。

信長などの傾奇者は新興大名であったのに対し、バサラ大名はもっと高い地位にいた人たちと言えます。

 

信長が葬式の時、父親の位牌に灰を投げつけ、人々のひんしゅくを買ったのは有名ですが、バサラ大名はスケールが違います。

道誉は天皇の兄弟の屋敷を腹立ちまぎれに焼打ちします。

さらに頼遠は、光厳天皇と道ですれ違った際、下馬せよと命じられたのに腹を立てて、牛車に矢を射込むという暴挙を行っています。

 

傾奇者はティーンエイジャーのツッパリみたいなものですが、バサラ大名は権力に根差したもっと過激なものでした。


そのいっぽう、バサラ大名は文化人としても一流であったところが面白いところです。

ただ、道誉たちが文化的行為をただの道楽で行っていたかというとそうでもなく、北条氏が指摘するように「これら寄合は政治的陰謀の手段ともなり、寄合を通じての政治同盟や結合にも利用されたにちがいない」ということです。

 

「いけばな文化史」の佐々木道誉の項は次の文で締められています。

 

道誉をいけばな人としてみなすには、彼はあまりにも野心的政治家でありすぎる。しかし、この当時いけばなはけっして独立専業のものではなく、あくまで趣味教養の一端でしかなかった。むしろ後世のいけばなが、堂家や寺僧の中から名人を輩出するようになったその基盤は、やはり道誉のような武家として政治的にもじゅうぶん野心的なバサラ大名によって諸芸能とともに新しい人間関係のものとして認められたところに端を発するといえよう。

その意味で彼は、いけばな人物史の筆頭を位するにふさわしい人物なのである。

 

参考:「いけばな文化史」北條直明・千人社

 

佐々木道誉

 

 

東大出の親の子供は同じく東大に入る可能性が高いと言います。

これは頭の良さが遺伝するのではなく、勉強の方法や環境によるものだと思っています。

 

東大法学部出身で明治大学文学部教授の齋藤孝氏の「斎藤孝のざっくり!日本史」を読むと、そんなことを強く思いました。

頭がいいとは、齋藤氏のような人を指すのでしょう。

この本には「すごいよ!ポイント」で本当の面白さが観てくる、という副題が付けられていますが、この「すごい!ポイント」という発想が本当に「すごい!」のです。

 

どういうことかというと、歴史の節目となる大きな出来事をいくつかピックアップして、そのテーマについてどこが「すごい!」のか3つのポイントで語る、というものです。

 

斎藤氏が選んだ「すごい!」出来事は、

 

①廃藩置県

②万葉仮名

③大化の改新

④仏教伝来

⑤三税一身の法

⑥鎖国

⑦殖産興業

⑧占領

 

の八つです。

この中から廃藩置県の3つの「すごい!」ポイントを見てみると、

 

①大名が一気に廃止された

②ほとんど内戦が起きなかった

③松下村塾という田舎の私塾が武士の開明化を支えた

 

という内容を挙げています。

 

廃藩置県とは、すべての藩が廃止されて府県となり、旧大名である知藩事は罷免され、代わって中央政府が派遣する府知事、県令が地方行政にあたったことで、国内の政治的統一の完成を示します。

つまり、地方行政から「お殿様」がいなくなったのです。

 

不思議なのは当時者である大名が廃藩置県をおとなしく受け入れ、ほとんど内戦が起きなかったことです。

その理由としては、「日本人というのは、一つ前例ができると、またその前例が大きいものであればあるほど、一気にそちらの方向に傾き、倒れていく傾向があ」るからです。

そして、「お殿様を守るより、藩を守るより、いまは欧米列強と対抗することの方が大切」という優先順位を間違えなかったことが日本が近代化に成功した理由である、とします。

 

また吉田松陰の松下村塾の塾生に代表されるように「明治維新は支配階級である武士自身が、自分たちの作ってきた社会は世界的に見ると時代遅れだということに気づき、自らの手で作りかえた革命だった」というポイントを指摘します。

 

内容については異論もあるかと思います。

むしろ異論があっていいのだと思います。

大事なのは、このような見方をすることです。

本当に「すごい!」と思います。

 

諸外国では、自国の歴史について語れない者は国際人として認められないそうですが、日本人は歴史に疎い人が多すぎます。

この点について、斎藤氏は、日本占領下においてアメリカが押し付けた「教育改革は悪くない感じもするのですが、いま落ち着いて振り返ってみると、それまで日本が持っていたものが全否定されてしまったため、大切なものまで失ってしまったが気がします」と書いておられます。

 

忠義だとか、孝行だといった言葉が封建的だ、という一言の前にばっさり切り捨てられ、日の丸の掲揚や君が代の斉唱すら戦時的であると言われた一時の戦後教育ほど異常なものはなく、日本の学童は歴史観において自己否定癖を刷り込まれました。

悪者にする気はないのですが、アメリカは日本に歴史を振り返ってもらいたくない理由があったからです。

東条英機ら日本人の軍人を「人道的立場」から罰した連合軍ですが、アメリカが行った広島、長崎への原爆投下は「人道的」に問題がなかったのでしょうか。

 

少し話がそれましたが、自分も含めて日本人はもっと自国の歴史に誇りを持つべきだと思います。

歴史を振り返るとき、この斎藤式「すごい!ポイント」はとても役に立つはずです。

 

 

 

 

 

時は9代唐皇帝・玄宗の頃。

安史の乱により長安が陥落するのが西暦756年なので、その数年前。

玄宗の寵愛を受けた楊貴妃はライチをとても好み、産地の嶺南から長安まで(1300km~1800km)を早馬で運ばせたと言われます。

この「長安のライチ」はライチを運ぶ「ライチ使」の姿を描いています。

 

いま、何かと軋轢が生じている中国の映画ですが、古今東西、人の悩みや欲望というのは同じなのだなあ、と思います。

主人公の李善徳は下級官吏。

ローンでお金を借りて新居を購入したとたん、上役から人身御供のような役割を押し付けられてしまいます。

その役は「ライチ使」。

痛みやすいライチを1500kmもの距離を運ぶのがライチ使の役目なのですが、これは無理難題というよりも、不可能な任務。

失敗したときの責任を押し付けられるのがライチ役に選ばれた者の宿命だったのです。

 

契約書にサインしたあとで上役の陰謀に気づいた李善徳でしたが、後の祭。

もう引き返せないところまできていました。

李は死を覚悟しますが、友人の杜甫(実在の有名な詩人)に慰撫され、気を取り直して、任務がまったく不可能なのかどうか検証しようとします。

李は数字のエキスパート。

実際に嶺南に行き、得意の数字を使いながら統計を取り始めます。

裏表のないひたむきな性格の主人公を前にして、味方も現れ始めます。

この手の映画では王道といっていい演出とはいえ、ぐっときてしまいます。

 

前半は笑わせ、中盤ではほろりとする場面もあり、いよいよ物語は佳境を迎える・・・はずだったのですが、後半は何だか失速感があります。

痛みやすいライチをいかにして運ぶかというアイデアがこの映画の一番のミソなのですが、その肝心のアイデアがしょぼいのです。

このアイデアだったら最初から気付けよ、と突っ込みを言いたくなります。

 

楊貴妃の好みであるからといってたかだかライチを運ぶためにものすごい費用と労力を費やすのですが、それらは庶民の犠牲の上に成り立っています。

そのことに主人公は気づいていないようなのですが、これではあまりにも間抜けです。

あんなにいい人オーラを出していた主人公が終盤ではただのダメ人間みたいに感じられてしまったのは大きな減点です。

まあ、完全なハッピーエンドの少ない中国映画っぽいといえます。

 

とはいえ、観ている最中はかなり楽しめました。

付け足し感はあるものの、ラストのアクションシーンも派手だし、総合的にみたら秀作だと思います。

 

お勧め度★★★★(★5点満点)

 

 

長安のライチ公式サイト

これまた摩訶不思議な映画です。

 

監督が「哀れなるものたち」のヨルゴス・ランティモス、製作に「ミッドサマー」「ポーは恐れている」のアリ・アスター、同じく製作に「パラサイト 半地下の家族」のミッキー・リー、そして主演にエマ・ストーンとくれば、一筋縄ではいかない映画になるのは分かり切っています。

 

「ブゴニア」とは古代ギリシャの儀式に由来し、牛の死骸から自然にミツバチが生まれることを言うようです。

 

派手なアクションシーンはなく、映画のほとんどが犯人の家の地下のシーンです。

何の変哲もない殺風景な地下室で物語は進んで行きます。

舞台は地味でも、内容は奇想天外です。

テディ(ジェシー・プレモンス)と助手役のドン(エイダン・デルビス)は、エマ・ストーン演じる製薬会社CEOミッシェルを宇宙人だと確信して誘拐します。

誘拐後は、三人による舞台劇のような感じでストーリーは進みます。

一種の謎解きのような展開なのですが、大きな動きはありません。

それでいて、観客を飽きさせない監督の技量はたいしたものです。

 

この映画も前回ご紹介した「HELP]と一緒で、どのように転んでもおかしくありません。

尋常なところには落ち着かないだろうと思っていましたが、ラストは「こう来たか!」という感じでした。

ある程度は予想していた展開ではありましたが、最後の最後は「えっ」と思った人は多かったと思います。

タイトルが再生を暗示するし、ラストが暗喩と見れば、製作陣の言いたいことは何となくわかってきますが、それでも観た人それぞれの感想があるでしょう。

 

こういった映画は観終えたあと、誰かと話をしたくなります。

好き嫌いはあるでしょうが、いい映画なのだと思います。

 

それにしても、「哀れなるものたち」ではこれでもかというほど完全ヌードを披露したエマ・ストーンが今度はすっぴん丸坊主に挑戦。役者根性なのか、それともマゾっ気があるのか、いずれにせよ、すごい役作りをしています。

 

お勧め度★★★(★5点満点)

 

 

「ブゴニア」公式HP

 

最近、本棚にある未読本を読む作業をしているのですが、今回は「公方様の話」(三田村鳶魚・中公文庫)という本を引っ張り出してきました。

 

鳶魚翁は毒舌なところのある時代考証の大家です。

かつては全集も出版されるほどの人気だったのですが、最近はその名を聞くことが少なくなったように思います。

 

さて、この「公方様の話」はタイトル通り何人かの徳川将軍について取り上げています。

本の最初にあるのは「御神君御寵女十七人」という何とも挑発的な章ですが、一番冒頭には「大御所の淋病」というさらに挑発的なタイトルが付けられています。

 

徳川一世(家康)の、駿河で淋病に罹ったことが、渋井太室の『国史』にある。これは大御所様時代、いずれにしても慶長十年以後の話でみれば、六十四五になっておられるのに、いかに、海道一の弓取りと、甲斐の大僧正に感服されたほどの豪傑にもせよ、あまりに武威の盛んなのをいぶかった。


渋井太室とは、江戸時代中期に佐倉藩に仕えた儒者です。その人がどういう経緯で家康の性病のことを書いたのかは分かりません。「国史」はデジタルアーカイブに入っていたので見たのですが、量が多くて該当部分は見つけられませんでした。

 

京の公家である山科言経(やましなときつね)と言う人が書いた『言経卿記』(ときつねきょうき)という日記に詳しい記述があります。

言経は家康お気に入りの公家であり、家康から扶持を貰っていました。

文禄四年(1595年)十月十三日の日記には、

 

江戸亜相ヘ罷向、去三日ヨリ淋病所労也云々

 

と書かれています。

江戸亜相とは家康のことですから、「家康のところへいったところ、十月三日から淋病に罹って疲れている、と言われた」という意味となります。

この時、家康五十三歳。

『国史』の著述とは年齢差がありますが、薬で治しては、その後次々に性病に罹っていた可能性はあります。

 

いずれにせよ、晩年になって政権が安定してから家康は別のところで精力を使うようになったのでしょう。

 

 

 

 

サム・ライミ監督が1981年の「死霊のはらわた」(原題:The Evil Dead)を制作したときは、まだ大学生だったというから驚きです。

この「死霊のはらわた」は従来のゾンビ映画にはなかった斬新な映像で、衝撃的でした。

その後「スパイダーマン」を撮った監督になるのですが、その時は、カルト的なホラー映画から明るい娯楽映画への転身にすごく驚いた記憶があります。

「スパイダーマン」シリーズは3作までメガホンを取ったのですが、その後は製作のほうに回り、数々のちょっとB級っぽい作品を手掛けています。

 

「オズはじまりの戦い」(2013年)以来、ながらく監督作品はありませんでしたが、2022年、久しぶりに「ドクターストレンジ」を撮影、さらにそれから4年後、今回の「HELP/復讐島」となりました。

 

この手の復讐劇だと前半にいじめなどの陰湿な場面が延々と続く映画が多いのですが、そこはライミ監督。いじめの部分はさらっと流しています。その分、パワハラ社長がそれほど悪人に見えないのが難点といえば難点ですが、ストーリー展開の速さを意識したライミ監督は最初から飛ばします。

 

飛行機の落下により無人島に漂着した社長のブラッドリー(デュラン・オブライエン)と部下のリンダ(レイチェル・マクアダムス)。

リンダはサバイバルオタクで、アウトドアに関する知識が豊富で技術も持っています。

無人島への漂着もむしろ楽しんでいます。

ブラッドリーはアウトドアの知識はなく、パニックにならないように自制するのが精いっぱい。

おのずから上下関係は逆転し、無人島ではリンダが主導権を握るようになります。

そこからふたりの駆け引きが始まっていきます。

 

ストーリー自体は単純で、どこにどう転んでもあり得る展開なので、「この先どうなるのだろう」という期待感が持続します。

途中、猟奇的になりそうになりますが、何とかこらえたのも束の間。

終盤はさらにサイコっぽい展開にはなるものの、まあこれくらいなら、という想定内で終わります。

 

「死霊のはらわた」や「スパイダーマン」へのオマージュっぽい映像もあり、かなり楽しめます。

 

主人公リンダを演じたレイチェル・マクアダムスは、どこかで見たと思っていたら「アバウト・タイム」のヒロイン役でした。この映画の公開が2012年。いつも間にか13年前の映画になっていました。役柄とはいえ、貫禄のついたレイチェル・マクアダムスの姿に時間の流れの早さを感ぜずにはいられません。

 

お勧め度★★★★(★5点満点)

 

 

HELP/復讐島 HP

 

 

 

 

山に夕闇がせまる

子供達よ

ほら もう夜が背中まできている

火を焚きなさい

お前達の心残りの遊びをやめて

大昔の心にかえり

火を焚きなさい

山尾三省「火を焚きなさい」

 

何とも不思議な映画です。

十人が観たら、十の違った感想があると思います。

 

ストーリーは臓器移植問題をメインの軸にすえ、サブストーリーとして主人公の恋愛ドラマが進んでいきます。

臓器移植はドキュメンタリータッチの硬派なものです。

ラブストーリーはメルヘンさえ感じる不思議な世界観ですが、その実、失踪者問題について描いています。

冒頭に詩を載せましたが、河瀨直美監督の根底には家族そろって屋久島に移住した思想家で詩人の山尾三省の考えがあるのだと思います。

 

臓器移植問題については倫理観、社会的抵抗、偏見などが絡み合い、日本では先進国の中ではもっとも遅れています。

この映画ではその状況を一方的に責めることはせず、日本医学会を取り巻く現状をむしろ淡々と説明しています。

しかし、後半になって物語はドラマチックに展開します。

医療の現場の描き方はドキュメンタリータッチで、最後の手術のシーンは、観るのが辛い人がいるだろうと思うほどリアリティさを追求しています。

 

もうひとつの軸である恋愛ドラマと失踪者問題のほうは、意見がいろいろに分かれると思います。

主人公はフランスから来た臓器移植についての研究者。

ひとり屋久島を尋ねたとき、不思議な青年・迅に出会います。

迅は首から掛けたカメラでコリーの写真を撮ります。

その後、迅は神戸のコリーのマンションに住み込み、ふたりは恋に落ちますが、迅は失踪者だったのです。

失踪者というのは犯罪等に巻き込まれたのではなく、自らの意思で社会から身を隠す人もいて、迅は後者です。

 

迅は働きもせず、コリーのマンションでゴロゴロしているだけの存在。

相変わらず、カメラを手にしてはコリーの写真を撮り続けます。

神社にお参りに行った際、忙しすぎるコリーに迅はブレスレットをプレゼントします。

ブレスレットをすれば、時計はしにくくなります。

忙しさに振り回されないようにという迅の気持ちが込められていました。

 

ある夜、仕事で疲れ果てて帰って来たコリーは、相変わらずゴロゴロしているだけの迅を見て怒りが込み上げます。

コリーはプレゼントにもらったブレスレットを洗面台に投げるように外してシャワーを浴びます。

 

誕生日の夜、「今年の抱負(resolution)は?」と聞かれて答えようとしない迅に対してコリーは、「あなたを信じている」とか「写真の個展を開けば」と言います。

迅は「俺だって自分なりに頑張っているんです」と怒りを爆発させるように答え、翌日にはいなくなってしまいます。

荷物はなくなっていましたが、カメラだけは残されていました。

フイルムを現像してもらおうとカメラ屋さんに行くと、そのカメラは壊れていて、フイルムも入っていないと言われます。

 

カメラは最初から壊れていたわけではありません。

屋久島で撮った写真はちゃんとコリーの机に飾られています。

コリーの忙しい毎日の中でいつの間にかカメラは壊れ、ブレスレットは投げ出されます。

 

過去を振り返ったとき、思い出に現実感がないと思うことはありませんか?

時が過ぎれば、何もが変化し、いずれは消失します。

吹き抜けた風に対して覚えているのは感触だけです。

たしかにあったのは事実だけれど、今となって振り返ると幻だったのかもしれない、と思うのが人生のような気がします。

 

そんなことを考えさせられた映画でした。

 

お勧め度★★★(★5点満点)

 

 

たしかにあった幻HP

 

 

 

 

 

「ヒポクラテスの盲点」は、すごく考えさせられる映画でした。

 

コロナが猛威を振るう際、政府が採用した理論は「ベネフィット(利益)がリスク(危険)を上回っている状態」であれば、GOサインを出すというものでした。

ワクチンに内包される危険性を知りながら、「肉を切らせて骨を断つ」という強硬手段を採ったのです。

 

この映画で提起されている問題点は、①政府はワクチンの危険性を知っていながら、嘘を吐いてまで安全性を強調したワクチン接種率を上げるため情報操作を行ったさらに安全性を認知させるため、被害者の情報を意図的に伏せた。という3点にあります。

 

当初ワクチンは腕に留まると発表されていましたが、実は脳や臓器まで到達する可能性を政府は知っていたのです。

あえて隠していたわけですが、最初からこのような情報を発信していたら、ワクチン接種する人はごくわずかになってしまったでしょう。

 

映画の中に長崎大学の森内浩幸教授の話が出てきます。

「コロナワクチンは優れたワクチンではなかったかもしれないが、当時では一番のワクチンだった。このワクチンによって救われた命は多い」という見解です。

ベストな選択肢ではないけれど、悪くない選択だったというわけです。

 

ですが、森内教授は「最初は有効性のあるワクチンだったが、段々その有効性が失われていき、リスクがベネフィットを上回るようになっても使用され続けた」点は問題だったと言っておられます。

その通りだと思います。

危険性を秘匿したまま、ワクチンを推奨し続けたのは国家的殺人ほう助だと思います。

 

「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスは、

 

自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。

 

という誓いを立てました。

映画のタイトルはここから来てます。

果たしてワクチン問題は「盲点」だったのかどうか?

 

情報社会の現代。

インターネットで調べれば、何でも分かると思っている人は多いと思います。

間違いです。

現代は情報が多すぎて、正確な情報が得にくい時代になっているのです。

知能が高い人ほど詐欺被害に遭う確率が高いと言いますが、インターネットもまさしく同じです。

いかにも権威ありそうな人や団体が「正論」を主張しています。

しかし、それが情報を操作しようとする人たちによる工作だったらどうでしょうか?

一回、「正論」や「世論」を疑ってみる姿勢が大事だと思います。

 

福島雅典教授のような方々が、たとえ全体の一握りだとしても存在してくださっていることは救いです。

 

ぜひ、観ていただきたい映画です。

 

お勧め度★★★★★(★5点満点)

 

 

ヒポクラテスの盲点HP

 

 

 

サザンオールスターズに「松田の子守唄」という曲があります。

バラード調のいい曲です。

 

せめて 一度ならずとも

心から酔わせたげる

乱れたりしてもいい

すべからく 恋はいいもの

 

冒頭はこのような歌詞です。

とうぜん、歌詞の内容は分かります。

分かるけど、何か変です。

 

「せめて」から始まるのであれば、最後は「一度ならば」が対応するように思えるのです。

 

次に「すべからく恋はいいもの」の内容に迷います。

「すべからく」は、~べしを伴って、「すべからく~すべし」のように使われます。

必ず~しなさい、という意味です。

ですが、本来の意味ではなく「すべての」と意味に誤用している人が30%強いるそうです。

「すべからく」には「当然~である」という意味もあるので、「当然、恋はいいもの」と捉えることはできるのですが、これではしっくりきません。

どうも桑田さんも30%の仲間のような気がします。

 

しかしながら、サザンの曲に求められるのは、正しい言葉の使用方法ではなく、雰囲気です。歌ったときの言葉の響きや語感といったものです。

 

たぶん、冒頭で「ならずとも」と文語調の言葉を使ったので「すべからく」という古めかしい言い方を対応させたのではないかと推測できます。

その口語調の言葉の間に「酔わせたげる」という崩れた口語調の言葉が入っているので、対比がいっそう鮮やかです。

もし桑田さんがぱっとこの詞を書いたのなら感性がすごいし、計算した詞であるならすごく緻密です。

 

その意味で、この歌は間違った言葉の使い方をしていながらも、すごい歌だと言えます。

 

ですが、物書き志望の方はこのような使い方はしてはならない、ということを蛇足ながら付け加えておきます。