あなたに平安がありますように。
あなたが救われますように。
イエス様のみこころのとおりになりますように。
また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、
『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』
と願いつづけた。
彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、
『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、
このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。
そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
そこで主は言われた、
「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。
しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
神を信じない、人を愛さない冷酷な裁判官でも、訴え続ける人の声を聞いている内に心を変えて、人のためになる裁きを行います。
愛の全く無い人でも、人のためになるように、行えるのです。
ならば必ず、イエス様は正しい裁きをイエス様を信じる人のために行うのです。
イエス様が必ず勝つから、イエス様を信じる人は最後に勝つのです。
完全に負けて、絶対に二度と立てない様になっても、必ず勝つのです。
正しいも間違いも何も無いのなら、人はどうしたら良いのか永遠にわかりません。
正しい道は一つしかありません。
〔イエス様だけが正しい〕
これだけしかないのです。
神の御意志がイエス様です。
物言う意志です。
神は無限に高いので人には理解できません。
だから、イエス様が在るのです。
神のことを理解したような気になることは非常に無礼なことです。
宗教をやって全部わかったつもりになることは非常な思い上がりです。
どこまでもわからないと言うのが正解です。
知ったつもりになることは間違いですから、心を変える必要があります。
地上に信仰が見られるだろうかということは、その時までイエス様を信じている人がほとんど居ないということです。
たくさん信仰者がいるのではありません。
本当にイエス様を信じている人が、イエス様が来る時まで信仰が続いているかどうか危ういということです。
イエス様を信じる人が対象です。