あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。

そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、

声を張り上げて、
「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」
と言った。

イエスは彼らをごらんになって、
「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」
と言われた。
そして、行く途中で彼らはきよめられた。

そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、

イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
これはサマリヤ人であった。

イエスは彼にむかって言われた、
「きよめられたのは、十人ではなかったか、ほかの九人は、どこにいるのか。

神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。

それから、その人に言われた、
「立って行きなさい。
あなたの信仰があなたを救ったのだ」。













他の九人は、自分が良くなったら、自己中心に戻って行ったのです。

神に良くしてもらったなら、その日その時から神中心とならなければ、救われないのです。

自分の力や考えでは、到底無理であると悟ることです。

人は自分で生きていると信じていますが、それならなぜ死んでしまうのか。

高慢なんです。

ある程度自分は高いと思っているのです。

知識があるとか、財産があるとか、経験があるとかで、自信があるのです。

自分を信じても、自分は死んでしまうという定めです。

神の定めた法則からは逃れることができない。

それで、救いの道があるのです。

イエス様に救いがある。

その他のどこにも救いはありません。

キリスト教はパウロを信じていますが、パウロは救いませんから救われないという罠です。

狭い門から入れと言われているのに、広い門から入るからです。

イエス様を信じようとして入ると、パウロを教えられるのです。

このことを様々な角度でどこまでも確かめる必要があります。

イエス様を信じるとパウロを信じることは間違いだとハッキリ理解できますが、パウロを信じているとパウロを信じることが間違いだとは全く理解ができないのです。

パウロを信じることも信仰だからです。

あなたの信仰があなたを救うのはイエス様を信じた場合のみです。

パウロを信じた信仰はあなたを救えないのです。

パウロは神ではなく人だからです。

このことがわからないのは、一番初めに〔救われたいから信じる〕という思いがあるためです。

自分が救われたいというのは、自分のためだけの思いです。

自己中心ということです。