あなたに平安がありますように。

あなたが救われますように。

イエス様のみこころのとおりになりますように。





それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、
「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。
わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。

しかしイエスは言われた、
「あなたがたの手で食物をやりなさい」。
彼らは言った、
「わたしたちにはパン五つと魚ニひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。

というのは、男が五千人ばかりもいたからである。
しかしイエスは弟子たちに言われた、
「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。

彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。

イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。

みんなの者は食べて満腹した。
そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。












全てはイエス様から流れて来ます。

病気を治す力も、食べ物を与える力も、イエス様が弟子たちに与えます。

イエス様を中心とした弟子たちの輪の中にいれば、病気に困らず、食べ物に困らないので、誰もが生きるのです。

人はイエス様と共に居るなら、何も困ることが無く、互いに憐れんで許し合うので、喜びしかないのです。

イエス様が憐れむから、私たちは生きるのです。

全ての人が神に背いていても生きているのは、イエス様の憐れみです。

イエス様が憐れむから、私たちも憐れむことで互いに生きるようになるのです。

生きるとは、イエス様から永遠の命が与えられて急に不老不死になるわけではありません。

生きるとはどういうことなのか、私たちは理解しないといけないのです。

奪ったり騙したり殺したりして、互いに争っているから死ぬのです。

殺すやり方が悪魔のやり方です。

生かすやり方がイエス様のやり方です。

イエス様を殺して私たちが救われるなんてことは無いのです。

殺すということはイエス様とは一切関わりが無いのです。

殺すとか死ぬということはイエス様に無いのです。

イエス様を嘘で裁いて十字架で殺したのですから、十字架では救われません。

嘘も人の裁きもイエス様には関係が無いのです。

イエス様の正しい裁きがあるだけです。

イエス様と関係無いことは全て衰退して行きます。

イエス様と関係有ることが無限に弥栄して行くのです。