旅立ち
前日(S36.3.5)卒業式を終え、当夜慌しく大阪へ旅立つ不安な気持は拭えない。
(卒業式 昭和36年年3月5日 入社召集日は翌日3月6日9時の事だった)
初の出社に思わず緊張感が張りつめながらの、 社会人のスタートを切る。 ㈱積水化学工業 尼崎工場 守衛で入門手続きののち、案内され並びの2階会議室、 既に40人ほど着席しており互いに初対面だから静寂な空気。 前夜夜行急行列車デッキに荷物と共に立った侭、早朝大阪・梅田駅着~阪急・三国、下宿先(福本先生紹介・印刷科2年先輩の船越氏下宿先)を探し当て、荷物を放り込み折り返し尼崎・会社へ初出勤は今思い返すとゾッとする。
改めて、見回すと試験時40人位だったが、見慣れた顔は僅か4~5人、(計50数名)私も隣クラス(機械科2組)で同時受験の彼が居ない、 かなりな確率で関西各地から集った事を知る。
皆長髪のスーツ姿、 昨日卒業式帰宅後、散発しボーズ頭(倹約の為一枚刈り)に学生服姿は他に一人のみ。 周囲まるで大人の中に入ったみたい、 皆年上にみえ威圧される。 3月末まで会社の歴史から現在の規模、状況、生産現場、福利厚生までコッテリ。 尼崎工場は従業員6百数十名で平均年齢は21~2歳の若さ漲り活気に溢れている。 又 女子社員の存在は、余りにも眩しく常に正視できなかった、女性不在の工業高校生活ゆえ。
設計係に配属決定
研修最終日(3/31) 愈々配属決定、各職場の上司が前に立ち、 真っ先に私が呼ばれ工務課 設計係配属を命ずと証書。 以後次々と呼ばれ担当課長に連れられ夫々の職場へ散った。 正直 入社試験の段階で積水化学福岡支社人事と本社人事から二度も家庭調査があり、それも近隣の家庭で我が家の評判も調査された事を後日知る。 家庭訪問(学校で私は不在)では我家(古い農家)の土間で製作中の軽飛行機翼型リブが製作中であり、母は設計を希望との気持ちは伝えてくれていた。 幸運にも日勤の設計に配属は待望の職業、工場は年間無休の24時間稼動の現場であり他は殆どが現場の交替勤務でした。
本館設計室は既に一番端っこに席は準備されており、 製図用机と脇机(脇が大きい)がL字に、製図器具、三角T定規等全て一式揃っている、 上膳据膳に有頂天。 メンバーは課長係長含め10名(他女性事務とトレーサー)部屋は技術課と隣合せ。
工場は、テープ(セロテープ)、チューブ(ポリ・塩化ビニール袋)、フイルム(農ポリ)大きく三ケ所(工場)に分かれており、設計も2~3名の割合で担当。 一般に化学工場の主役は生産現場、設計はそのサブとして支える立場にあり、常に現場と行き来の必要があり専用の自転車が面白い。 私はチューブとフイルム担当の様だ、 模様眺めか。
しかし仕事も馴れぬ内に春闘が始まった、組合員(全員)は職場を離れ食堂に集合従って、課長と新人だけが職場に取残されていた、 未だ仕事に馴れないので仕事を進める術もなく、 毎日工場長室隣の図書室に通い時間潰し、早く仕事をと逸る。
収縮フイルムとの遭遇?
専門書より各社の技報や洋書特に雑誌のグラビア等に興味本位に眺めていたが、 BRITISH PLASTICS(ブリティッシュ プラスティックス 英書)にポリプロピレン(当時夢の樹脂として注目されていた)のSHRINK PACKAGEなる記事に興味を惹かれた。 シュリンクつまり収縮、 将来セロファンの代替品として可能性を秘め繊維強度はBIAXIAL STRETCHING(バイアキシャル ストレッチング:2軸延伸)する事により強度を増すとの内容で、A4サイズで20数ページに渡る。 注目は製法で、チューブを二次加工つまり製造されたチューブを再結晶温度で直径、巻取り速度共n倍にインフレーション(膨張)、分子レベルで組織を縦横に再組式、フイルムの強度を増すとの論文。
設計係では、 雑誌会といった発表会を催していた、各持ち場で夫々の新規技術、新しい手法、新規導入設備等を係内で互いに紹介し、又意見を交わす場。6月が私の順番らしい、しかし未だ仕事も満足にして無い段階でハテ困った事に。
苦渋の判断で先述の2軸延伸フイルムの新しい製法を提案してみたいと決めた。他にも興味のテーマは有ったが、未だ国内外含め実用化、商品化してないのが決め手だった。 新人に発表ネタが無いのは皆さん承知済、 従来に拘泥せず何でも有りの立場は逆に有難かった。 しかし翻訳し説明するには充分な準備を要する。 残念乍ら発表まで間に合わず、紹介程度で濁したか本題を多少、定かでない。
和訳のテクニックと専門用語、業界慣用句等、大まか理解すれど文字に表すのは別、 以後和訳の際度々壁に、日本語読めども電機の専門書理解不能の如くか。 まして、 ほんの1~2ヶ月前まで高校生、 しかし先輩達悔しいがスラスラ読解。
入社4ケ月後 収縮フイルムの単独開発専任に
しかして7月頃技術課の花田さんが延伸フイルムを研究してるので装置の開発・設計を担当との指示。 花田さんは九大応用化学、嘉穂郡出身の5歳上つまり職場では2年先輩、 以降4年間お花(ハナ:通称)チャンと苦楽を共にする仲となる。 無論ラインの仕事とは離れ単独行動で開発に専念を任命された。
S.36/7(1961)当面27万円(技術課予算)で着手、 約2ケ月余りを経て実験装置が完成。 10月テスト段階でサンプルを手に、 マッチで軽く炙ると見事にチリチリット縮む、溶けるのとは明らかに違い収縮であった。 工場の片隅二人してお遊びの様に連日テストを繰返していた。 机上で無く実験しながらの試行錯誤は実に効率良く結論も早い、 テストを繰返し確認しながら改良点を即手当て、 次々実験に臨む二人だけの世界。
※国内では S40(1965)グンゼが開発
11月早くも、 収縮フイルム商品化は技術的可能性を見通せる段階に。 予算1,000万円は本社稟議予算で全社バックアップ体制が敷かれ、AS-1装置と命名。 機密保持の為、図面はすべてランダム番号表記。 装置は防衛策として各部、分割し外部下請鉄工所に発注。 最早この段階で私のみが全体像を把握し管理下に。
私は入社半年チョイ。節目の過程で度々課長会議に諮られ、 色々と質疑に及ぶがワンマン工場長との対峙は私の出番、 各課長やお花チャン共に黙して事の成り行きを見守るのみ。 前田建一師に鍛えられてるゆえ、揺るぐ事無く思いを精一杯説得努力に勤めた。 後年、退職送別会席上、後任課長から木村は怖い、あの工場長と課長会議で3時間一歩も引かなかったから、工務課40数名の席で、先任課長から伝えきいてたらしい、 最高の送辞と自身勝手に解釈、ただ若気の至りだったが。
工場長(元技術課長)を皆恐れているが言行一致は好感が持て筋は通っている。本館で時にトイレで並ぶこともあり心遣いの言葉は嬉しく、 本社からのプレッシャーも? 行き成り会社の命運を背負うことになるのか、 自身はイケイケトンドン状態。
本格的設備投資に使命感
着手から2年近く過ぎ頃か、より大がかりに1億円の予算、 最早社内で最大のプロジェクト、 VS-1装置と命名。 装置では無くもう工場設備。 電気・水道・建屋の大幅改築も含まれ先輩同僚のSさんの協力をその間仰ぐ事に。 塩ビ工場(幅10M長さ6~70M?高さ10M鉄骨スレート拭き)を全面的に専用工場とし。 要員として係長以下10数名、 スタッフは変らずお花チャンと二人。 本社特許部のTさんも度々打合せに来る、特許取得の場合公開が前提従って防衛策として周辺特許も複数申請の必要とか。
余談だが、 特許申請は個人名が原則、権利は会社に帰属の誓約書提出は当然。 数年前、発光ダイオード開発で出身社相手に数百億円の賠償訴訟が話題に、ん?
会社は相当の予算と時間を注ぎ、他の社員しかり相応のリスク負担、しかしてこれが許されるなら組織、会社果して存在と組織倫理の危機をも招くのではと危惧する。
独帰国後長崎の時(昭和46年4月頃) 特許料(千五百円)がセキスイより現金為替で送られてきた(千円札と百円硬貨5枚は台紙にセロテープで貼られ)、 当時林兼造船の翻訳仕事を請けてたので記念に英語辞典を購入、 今も大切に蔵書の一部に。
一方社長(上野次郎:当時)も建設途中二度 重役引連れ視察に、会社の期待の程を肌身に感じる。 もう仕事以上に使命感に燃え設計と作業現場管理に没頭。
未だ20歳前後の時、 今更乍ら当時の上司(課長30歳、係長28歳)や会社の度量と懐深さに感謝と呆れ半分で感心する。 1億円の予算だが手取り1万数千円の時。
較ぶべくもないが戦前、ゼロ戦設計は学卒直後24~5歳の堀越二郎氏。 他の軍用機や軍艦等の設計・開発当事者もほぼその世代が活躍している。 それは、 本人達の努力は当然だが、 それら起草案を理解し組織を動かし更にバックアップした上司や上層部の寛大な判断と先見性が有ればこそ。
私自身当時を振返り、闇雲な猪突猛進の若造を、 支えて頂き感謝!!
遅きに失したが・・・。
装置・設備の詳細は今も憚れるが、 高温(再結晶温度130℃)の確保維持と損失熱量の供給設備、 素材を送りだし最終巻取り機(工場では三菱・川崎重工に製作依頼してたが今回は自主設計、製作は町工場)。 保温(加工)ボックスは部屋以上に工場の中に建屋が立っている感じとでも、肝心の内部設備は現在も商品が出回っており、 現状を考慮せざるを得ず残念ながら。
当時思い出すに基本は熱力学。 熱応力や熱容量の対応に化学工学便覧等々に依拠。 熱力は対数計算を伴うが幸い周辺先輩達の協力が得られ一時が万事。
一方 お花チャンは、商品化の為の努力に、 技術課研究室内で試作のフイルムでりんご等果物や雑誌類を持込みヘアードライヤーを使用ラップとシールで悪戦苦闘、 特にヒートシール部分やフイルム自体ノッチ(簡単に切り裂かれる)の物性はシール機と共に商品化と用途開発が普及のキーポイントだった。
追記
現在 カップヌードルやペットボトル等々あらゆる物に使用され、 包装の主流として普通に見かけ使用されてるのは開発当事者として内心誇らしくもあり、 ここまでの普及は当時考えられなかった。 56年前の事(2017/8/28 記)
「セロハン」最近殆んど見かけない、肌触りと取扱いの際の音に懐かしくもある。
次回 ⑬ 社内で記憶の数々
同僚先輩との日々、バスケットにかけた青春