「半分の月がのぼる空」再びの感想。 | 例えば子供の引き出しの中

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「半分の月がのぼる空」、初日に舞台挨拶つきの上映を見たけれど、どうしても、もう一度観たくて、今日出かけた。

一度ストーリーや夏目と裕一と里香との関係を知った上で、再び初めから観ることで気付く場面や、新しい発見があるだろうし、より気持ちが入ると思ったから。

前半の眩しいほどの裕一と里香の若い2人の笑顔の日々と、対照的な夏目の日常。

夏目はほとんど笑顔を見せない。淡々と日々を生きている。
その日常は娘の為にあるのだろう。
娘との時間を出来るだけ作り、娘にタコさんウィンナーの朝食を作ってやり、仕事場から電話もする。(かけてきたのかもしれないけど)
この娘との電話のやりとりはかなり微笑ましい。
面倒くさそうに何度も「お父さん、食べてへんよ…」と繰り返す夏目。
このあたりの間合いはさすがである。電話の向こうの拗ねている娘の顔が目に浮かぶ。

後半、夏目と里香のアルバムを見ながらの回想。
夏目と妻、いや、裕一と里香との時計はある雨の日に突然止まった。

2人の出会いから雨の日までを満ちていく上弦の月とするならば、雨の日からの日々は下弦の月だったのだろう。

夏目にとって、雨の日からの日々は何も生まれる事の無い、前に進むことすら辛い、しかし幼い娘と生きていかなければならない。
ただ娘と生きていくだけの日々。
それなりに楽しい出来事もあったろうし、毎日辛いわけでもない。
けれど、そこには里香はいない。娘とは、母親である里香との思い出すら共有できない。

何かに導かれるように、砲台山にひとり登る夏目。
そこで里香の思い出と向き合い、里香と語り、里香からのメッセージに、抑えていた涙が堰を切ったように溢れ出る。

そして、そこから夏目の再生が始まる。

名古屋の病院で心臓病の少女の手術を執刀するために、今の病院を去る夏目の表情は、明らかにそれまでとは違う。

また月が満ち始めるのだ。


もしも、この映画をよくある難病もの、死にゆく恋人にすがって泣くような悲恋ものだとか、原作と違うから見に行かないと決めてかかっている人がいるなら、それは違う。
その人は、損をしている。

全く想像とは違う、もっと別の素晴らしい脚本と映像とキャストの映画を一本、見逃すことになるからだ。