男の存在感は型できまる
私が住んでいる墨田区は、両国国技館の近くでもあり相撲部屋が、マクドナルドより多くあります(多分)。
春の時期になると、新しく部屋に入った新人が慣れない浴衣姿で朝の稽古通う姿を見かける。
坊主頭にあどけない顔は、少年の姿そのもの。そんな彼らが日に日に立派になってくる。
年齢的な成長や、考え方がしっかりするという事もあるだろうが、稽古によって作られる身体が少しずつ身に付き彼らの歩く姿が「らしく」なって行く変化に驚く。
地に足が付き、ぶれなくなってくる。
厳しいけ稽古で身体が出来上がっていくことも大きいが、型が徐々に身に付いてくることも身体と心に大きく影響を与える。
相撲はもちろん裸で戦うものだが、ボクシングのようなスポーツではなく興行的なものでもあり、興行であるなら見世物としての美しさが求められる。
様式美。
もし、勝敗を決めるだけのものならば、四股を踏んだり、塩をまいたり、水を付けたりはしないし、行司の装束は必要以上に物々しいく儀式そのものだ。
少し話はずれるが、宗教も劇場も嘘をつく場所は、飾り物でデコレーションされ、約束事がやけに多い。嘘を真実に見せるための演出が必要だからだ。
相撲が全て八百長とは言わないが、真剣勝負なのか興行なのかが問われるところでもあり、興行である以上、定期的に行わなければ存続が難しくなる。
いずれにしても、見世物、見られるものは型が身に付いていないと「型なし」となり面目丸潰れ、醜態を晒すとこになる。
型は習慣であり、ルールでもあり、姿でもある。
実は男のスーツはリラックスするためのものではなく、戦闘服「ON」の服でもあり、相撲取りが身に付ける型そのものではないかと思う。
その中でも、ショルダーラインの「肩崩れ」は男を貧相に見せる最悪のスーツスタイルだ。