二〇二五年十一月二日 NO・五二―三一 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 召天者記念礼拝 (日)歴代誌下 十八章 (月) 〃 十九章
司会 坂 本兄(火) 〃 二十章 (水) 〃 二一章
奏楽 みつ子師(木) 〃 二二章 (金) 〃 二三章
招詞祈祷 詩篇九十編十~十四節 (土) 〃 二四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十四番 ◎六日(木)の祈祷会お休みです。
主の祈り ◎本日は召天者記念礼拝です。
交 読 文 詩 編 五七編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 聖 歌六四〇番
献 金 感謝の祈り 平林姉
讃 美 聖 歌六四四番 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」
説 教 ルカ八章二二~二五節 と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、
讃 美 聖 歌四七二番 一体、この方はどなたなのだろう。命じれば
祈 祷 堅田姉 風も水も従うではないか」と互いに言った。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ルカ八章二五節
人生の嵐の中で
主イエスは、大勢の群衆が押し寄せる中、教えと癒しを不眠不休でなさったのであろう。そこで「イエスが弟子たちと一緒に船に乗り、『湖の向かう岸へ渡ろう』と言われた」(22節)。「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた」(23節)と記されている。ここから主イエスがいかに疲れておられたかが分かる。まさに9章58節で言われているように、「人の子(イエス)には枕する所もない」状態であった。
船出すると突然「突風が湖に吹き下ろして来て、弟子たちは水をかぶり、危うくなった」(23節)。主イエスが共におられても、このような危険は起きるのである。この出来事を教会は自らに当てはめ「嵐の中の教会」と呼んだ。私たちの人生も同様である。主イエスが私たちと共におられても、この世では嵐に見舞われる。聖書は決してご利益宗教のように〇〇を信じれば順風満帆の人生を送れるなどとは言わない。
ペトロは漁師であり、この湖をよく熟知していたにもかかわらず、「先生、このままでは死んでしまいます」と言って、主イエスを起こした。客観的に見て、弟子たちの判断は間違っていなかったであろう。しかし主イエスは、嵐を静めてから「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(25節)と言われた。まさにこの主イエスの問いこそが、この記事の中心である。ここで弟子たち(私たち)の信仰が問われている。マルコの同じ記事の中で「なぜ怖がるのか」(4章40節)という言葉が付加されている。苦難の中で、恐れや不安に捉えられるのは自然のことである。しかしそこに主イエスがおられるのに「死んでしまう(滅んでしまう)というのは、「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言われても仕方がない。だから私たちは困難の中にある時、いつでも信仰が試されていることを忘れないようにしよう。
主イエスは弟子たちの不信仰に驚かれたが、弟子たちは、自然を征する主イエスに驚き、「一体、この方はどなたなのだろう」と言った。私たちは、この時の弟子たちと違い、このお方が救い主であることを知っている。そして復活して今も生きておられる主イエスが「世の終わりまで、いつも共にいる」ことを知っている。だからどんなに私たちの人生に嵐が吹き、悩まされても、慌てふためかないことを主イエスは求めておられる。どんな中にあっても私たちはひとりではない。主イエスが共におられるのである。