二〇二六年五月二四日     NO・五三―八          聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第  聖霊降臨祭 (日)詩 編    百十編 (月)   〃  百十一編
                  司会 松 田兄(火)  〃   百十二編 (水)  〃   百十三編
               奏楽 内 間姉(木)   〃   百十四編 (金)  〃   百十五編
招詞祈祷   ミカ六章八節     (土)  〃   百十六編 
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条     ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十一番      ◎二八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り            ◎本日午後一時よりは天路歴程の読書会。
交 読 文  詩 編 七九編     ◎礼拝動画はこちら                                                                                                                                                                                                                       
讃  美  讃美歌一八一番                  
献  金  感謝の祈り       坪井兄 
讃  美  聖 歌四五三番      あなたがた律法の専門家にも災いあれ。
説  教   ルカ十一章四五~五四節     あなたがたは、
讃  美  聖 歌四三四番      人に背負いきれない重荷を負わせながら、
祈  祷          みつ子師 自分ではその重荷に指一本も触れようとしない。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ルカ十一章四六節


   律法学者の過ちから学ぶ
 ファリサイ派の人々に対する三つの災いを聞いた律法学者は、それを自分たちへの非難と受け取った。彼らは律法(旧約)の専門家で権威があり、その解釈と適用に人々は従った。それゆえ第一の災いで「あなたがたは、人に背負いきれない重荷を負わせる」と非難される。本来律法は、人がそれに従って生きることによって、神と人とに対して秩序と平和をもたらすために与えられたのである。それを彼らは、一つ一つの戒めに煩瑣な細則をつけて、律法を人を生かすものでなく、重荷と変えてしまった。


 第二の災いは、まず先祖たちが迫害した神の預言者たちのために記念碑を建てて、自分たちは先祖たちのようではない、と正しさを証明しようとした彼らの偽善を指摘される。なぜなら彼らはバプテスマのヨハネを始め、主イエスに逆らうことによって、先祖と同じように罪を犯しているからである。51節の「アベルの血からゼカルヤの血」とは旧約に記されている最初の殺人と最後の殺人を指している。先祖たちがそのように歴史の初めからずっと逆らってきたことを示し、それを踏まえて「今の時代は責任を問われる」(50・51節)と、律法学者もまた同じ罪を犯していると言われる。律法を与えられた民、律法を愛し実践しようと熱心であった律法学者が、目の前に遣わされた神の預言者を迫害して葬り去る。なんという皮肉であろう。しかしこれはいつの時代でも繰り返される悲劇である。


 第三の災いは、結論である。民の教師である律法学者は、律法の目的を捻じ曲げ、自分たちの正しさを主張しながら、先祖と同じ過ちを犯している。その結果、人々を救いから遠ざけている、と。


 ウーアイ(災いあれ)の深い嘆きを込めて、これほど厳しく主イエスが律法学者を攻撃されたのは、彼らが本来人々を救いの道に導く立場であるのに、逆に遠ざけたからである。私たちも同じ過ちに陥らないように心すべきである。自分は救いを語りながら人に重荷を負わせていないか。私たちは律法学者のように自分の正しさに固執していないか。42節の「公正と神への愛をおろそかに」してはならない、ということがここの中心である。主イエスは罪人を裁くためでなく憐れむために来られた。私たちの言動が、人を生かすかどうかによって、私たちの健全さが試される。そこに主の恵みに生きているしるしがある。