二〇二五年十二月七日  NO・五二―三六         聖 書 日 課   

 礼 拝 次 第   待降節第二主日 (日)ネヘミヤ    七章 (月)  〃   八章

                 司会 坂 本兄(火)  〃     九章 (水)  〃   十章

              奏楽 内 間姉(木)   〃   十一章 (金)  〃  十二章

招詞祈祷   詩篇百三編十一~十四節   (土)  〃   十三章 

頌  栄  聖 歌三八四番                (お知 ら せ)

信仰告白  使徒信条      ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。

讃  美  讃美歌 三〇番    ◎十一日(木)午後二時より祈祷会です。

主の祈り             ◎本日は、大掃除です。

交 読 文  詩 編 六二編    ◎本日は聖餐の恵みに与りました。                                                                                                                                                                                                              

讃  美  讃美歌 九五番     ◎オアシス稲毛No61ができました。

献  金  感謝の祈り 平林姉  ◎礼拝動画はこちら

讃  美  聖 歌二四八番        

説  教   ルカ九章一~九節   十二人は出かけて行き、村々を巡り歩いて、

聖 餐 式              到るところで福音を告げ知らせ、

讃美祈祷  聖 歌五八六番   松田兄 病気を癒した。

頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ルカ九章六節

 

   十二人の派遣から                      

 1~6節は「十二人」の派遣を記す。これまでは弟子たちは主イエスに随行するだけであった。なぜこの時点で派遣されたかと言うと、ガリラヤでの宣教の総決算のためである。9章51節からはエルサレムに向けて出発されるからである。ではなぜここでガリラヤ宣教を切り上げられたのかと言うと、7~9節で取り上げられるガリラヤの領主ヘロデの存在があった。すでにヨハネはヘロデによって殺されていたし(9節)、そのヘロデが「イエスを見てみたいと思った」(10節)とあり、身の危険があったのである。

 

 弟子たちに委託されたのは、①神の国の宣教と、②悪霊を追い出し、病気を癒すことである。この二つは別個のものではない。神の国とは「神の支配」が及ぶ所であり、そこには当然悪霊も病気も場所を持たないのである(11章20節)。当時、病気は悪霊の働きであり、罪の結果と受け止められていた。それを取り除くことは、神の支配が主イエス・キリストによって到来したことの明確な証なのである。しかし悪霊や病気の癒しは、常に伴うものではなくなった。初代教会ではいやしは聖霊の賜物として特定の人に与えられた(Ⅰコリント12章9節)。主イエスの十字架と復活の後は、病気のいやしは罪の赦しのしるしと見なす必要はなくなった。十字架の言葉が私たちを救う神の力である(Ⅰコリント1章18節)。

 

 3~4節で言われている「何も持っていくな」という命令は、すべての時代に通用する使信ではない。当時の特定の状況における命令であった。その証拠に22章35~38節では逆のことが命じられている。これは私たちに、聖書の言葉を注意深く吟味して、時期的、時代的制約に限定されているものと、時代を超えて普遍的なものとを見分け区別しなければならないことを示唆する。その意味でパウロが「女は誰も祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けよ」(Ⅰコリント11章5節)や「女は、教会では黙っていなさい」(Ⅰコリント14章34節)などは、時代的制約のもとで語られていると理解すべきである。事実「女は誰も……預言するとき」と言われていて、女性の中に預言する人がいたのである。預言は公の事柄である。

 

 十二人の派遣は、私たち自身の派遣を指し示す。キリスト者はキリストの証人として、各自に与えられた聖霊の賜物を用いて、キリストによる救い、すなわち復活の希望、愛と平安を証するために。