二〇二五年十月二六日  NO・五二―三十         聖 書 日 課   

   礼 拝 次 第       (日)歴代誌下   十一章 (月)  〃    十二章

                  司会 坂 本兄(火)  〃    十三章 (水)  〃  十四章

                奏楽 内 間姉(木)   〃   十五章 (金)  〃   十六章

招詞祈祷   ダニエル十二章八~十節   (土)  〃    十七章 

頌  栄  聖 歌三八四番                (お知 ら せ)

信仰告白  使徒信条     ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。

讃  美  讃美歌 十三番    ◎二七日(木)午後二時より祈祷会です。

主の祈り           ◎本日午後一時より天路歴程の読書会です。

交 読 文  詩 編 五六編  ◎次週の礼拝は召天者記念礼拝です。                                                                                                                                                                                                              

讃  美  讃美歌二九八番   ◎礼拝動画 こちら      

献  金  感謝の祈り       坪井兄 

讃  美  聖 歌三九八番        

説  教   ルカ八章十六~二一節  するとイエスは、「私の母、私の兄弟とは、

讃  美  聖 歌五七八番    神の言葉を聞いて行う人たちのことである」

祈  祷             みつ子師 とお答えになった。

頌栄祝祷  聖 歌三八三番                    ルカ八章二一節

 

   人を照らす灯として

 16~21節は、4節以下の「種まきのたとえ(5~8節)とその説明(9~15節)」と深く関連しており、その文脈の中で理解されなければならない。そしてその主題をさらに敷衍するものである。

 

 1節に「イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせ」と言われているが、「種まきのたとえ」は、そのことの譬えである。主イエスが宣べ伝えた「神の国・福音」は、「神の国の奥義」(10節)であり、弟子たちはそれを「知ることが許されている」(10節)人たちである。

 

 16~18節は、それを踏まえ、その文脈から理解されなければならない。というのも、これら三節は、他の箇所にも使用されているが、それぞれの文脈で意味が違っているのである。一例をあげれば、17節は12章2節にあり、そこではファリサイ派の人々の偽善があばかれるという意味で用いられている。しかしここでは「神の国の奥義」が隠れたまま、秘められたままであることはない、という意味で用いられている。それゆえ17節の「灯のたとえ」は、神の国の奥義を知ることが許された弟子たちは(私たちも)、「それを灯のように「入って来る人に光が見えるように」輝かせなければならない。つまり宣教し証するのは当然であり、せざるを得ないのである。それが「どう聞くかに注意する」(18節)ことである。

 

 主イエスの福音は、これまで隠されていた奥義を明らかにした。それはファリサイ派の人々が考えていたような律法を遵守する人が神の前に義とされるというのではなく、イエスは実践を通して、罪人をこそ神は顧み受け容れられることを知らされた。それは十字架と復活において完全に成就され明らかとなった。パウロはローマ16章25~27節で、そのことを見事に要約して述べている。

 

 19~21節は、マルコでは「種まきのたとえ」の前にある。そこでは主イエスの肉親の無理解という視点で記されている。しかしルカでは、「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人のことである」(21節)ということを強調するために用いられており、これが4節以下の結論なのである。私たちは神の言葉である主イエスの福音を聞き、信じて救われた者である。私たちはその恵みを灯のように輝かせ、人々に伝える時、「持っている人はさらに与えられる」(18節)という恵みに生かされる者となるのである。