二〇二五年八月三一日 NO・五二―二二 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)列王記下 九章 (月) 〃 十章
司会 坂 本兄(火) 〃 十一章 (水) 〃 十二章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十三章 (金) 〃 十四章
招詞祈祷 イザヤ五五章九~十一節 (土) 〃 十五章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 一 番 ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎天路の原稿を八月末までにお願いします。
交 読 文 詩 編 四八編
讃 美 讃美歌二四〇番
献 金 感謝の祈り 坪井兄
讃 美 聖 歌二二九番 主よ、……私はあなたをわが家にお迎え
説 教 ルカ七章一~十節 できるような者ではありません。……
讃 美 聖 歌五〇〇番 ただ、お言葉をください。
祈 祷 松田兄 そして、私の僕を癒してください。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ルカ七章六・七節
御言葉への全き信頼
主イエスは、「平地の説教」を終えてカファルナウムに場所を移された。しかしこれから語られることは平地の説教と別個のものではなく、それを裏付ける実例と見ることができる。
2節以下で取り上げられている「百人隊長の僕の癒し」は奇跡そのものにではなく、百人隊長の言動・振る舞いに焦点が当てられている。百人隊長は異邦人である。福音は異邦人にも及ぶ最初の例である。
「僕」は原意は「奴隷」という語である。当時奴隷は道具と同じ扱いであった。しかし百人隊長は自分のためではなく、その奴隷のために一肌脱ぐのである。「重んじられている僕」とは言え。
百人隊長は、主イエスの所に自分で行かずに「ユダヤ人の長老」を遣わしている。異邦人の自分が行くよりも主イエスの同胞である長老からお願いする方がより効果的と考えたからである。それと同時に、6~7節の言葉からもわかるように、自分で頼みに行く資格がないと思っていたのである。長老たちは百人隊長の僕の癒しを主イエスに「熱心に願った」(4節)。その理由は、百人隊長がユダヤ人を愛し会堂を立ててくれた人だったからである。そこで「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と述べている。この記事の鍵の言葉の一つはこの「ふさわしい」である。この語は、「値する」「資格がある」という意味である。百人隊長の自覚は「お迎えできるものような者ではない」(7節)であった。すなわち「値しない、資格がない」と。この違いの根底にあるのは何か。長老たちの基準は「功績主義」である。しかし百人隊長は、そのような事をしたからと言って、それを盾に要求できると思っていない。
百人隊長は、主イエスがこの地上のものに対する全権をお持ちであることを信じており、自分の職務上の経験から、その語られる言葉に権威があり、それが必ず実行に移されることを疑わない。だから「ただ、お言葉をください」ということができた。これを聞いて、主イエスは百人隊長に賛辞を送って「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」(9節)と言われた。そこでこの記事を通して、百人隊長の「謙遜と信仰」を、私たちが見習う模範とされてきた。しかしともすると「信仰と謙遜」が功績主義に陥る危険がある。「信仰と謙遜」が癒すのではない。最も重要なのは主イエスの言葉そのものである。