二〇二五年十二月十四日 NO・五二―三七             聖 書 日 課   

礼 拝 次 第    待降節第三主日 (日)エステル    一章 (月)  〃   二章

                 司会 松 田兄(火)  〃     三章 (水)  〃    四章

              奏楽 内 間姉(木)   〃    五章 (金)  〃    六章

招詞祈祷   詩篇二三編一~三節     (土)  〃    七章 

頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)

信仰告白  使徒信条      ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。

讃  美  讃美歌 五四番    ◎十八日(木)午後二時より祈祷会です。

主の祈り             ◎本日午後一時半より子供のクリスマス会です。

交 読 文  詩 編 六三編    ◎次週はクリスマス礼拝・祝会です。                                                                                                                                                                                                              

讃  美  讃美歌 九七番     ◎礼拝動画は動画はこちら   

献  金  感謝の祈り  堅田姉 

讃  美  聖 歌二五三番    イエスは五つのバンと二匹の魚を取り、

説  教   ルカ九章十~十七節   天を仰いで、それを祝福して裂き、

讃  美  聖 歌七一七番    弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

祈  祷         坂本兄 人々は皆、食べて満足した。

頌栄祝祷  聖 歌三八三番            ルカ九章十六・十七節

 

   五千人の給食の意義   

 主イエスによる奇跡は、四福音書で合わせて約三五ほど記されているが、全福音書に記されているのは、この「五千人の給食」だけである。それだけでも、この奇跡の重要性を示している。多くの奇跡は、人の求めに応じてなされたが、この奇跡は、主イエスが自発的になされた点でも稀有である。さらに言えば、病人の癒しなどのようにどうしてもという切実のない、ある意味なくてもよい奇跡である。それゆえこの奇跡が全福音書に記され、主イエスが自らなさった意義は大きいと言わなければならない。

 

 この奇跡は、宣教に派遣された使徒たちが帰って来たので、弟子たちを休ませるため、舟で(マルコ6章32節)「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」時に行われた。群衆は追いかけて行った。マルコ6章34節は「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、……深く憐れみ、いろいろ教えられた」と記しているが、ルカは「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を癒された」と記す。どんなに疲れていても、人々を思う主イエスは、時を忘れて愛の業に励まれた。

 

 これまでもこのような事は何度もあったと思われるが、ここは町ではなく「寂しい所」であったので、弟子たちは、主イエスに人々の解散を進言した。それは確かに理に適ったことで、人々への配慮であった。しかし主イエスの口から出た言葉は、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」(12節)であった。そこには男だけで五千人もいたのであり、到底不可能なことは誰の目にも明らかである。しかしあえて主は弟子たちにそう言われたのである。なぜか? 主イエスは彼らが持っていたわずか「五つのパンと二匹の魚」を用いて御業をなさった。私たちの力も微々たるものであるが、今も主イエスはそれを用い給う!

 

 この奇跡は、主イエスの働きの分岐点となった。ヨハネ福音書はこの奇跡を体験した人々が、イエスを王にしようとしたと記す(ヨハネ6章15節)。その結果、主イエスのガリラヤでの宣教は困難になった。しかしこの奇跡は、主イエスの「神の国の宣教」の総決算的意味を持ち、神の国の目に見えるしるしである。16節の「イエスは……天を仰ぎ、それを祝福して裂き」は、主の晩餐、エマオの食卓(22章30節)で繰り返される。そしてそれは初代教会において聖餐として引き継がれ、主にある神の国を先取りする。