二〇二六年三月一日 NO・五二―四八 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)詩 編 二六編 (月) 〃 二七編
司会 坂 本兄(火) 〃 二八編 (水) 〃 二九編
奏楽 内 間姉(木) 〃 三十編 (金) 〃 三一編
招詞祈祷 エレミヤ八章八~九節 (土) 〃 三二編
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 七四番 ◎五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩 編 七一編一~九節 礼拝動画はこちら
讃 美 讃美歌五一四番
献 金 感謝の祈り 平林姉
讃 美 聖 歌二五五番 その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて
説 教 ルカ十章二一~二四節 言われた。……父よ、あなたをほめたたえます。
聖 餐 式 これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、
讃美祈祷 聖 歌五二二番 松田兄 幼子たちにお示しになりました。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ルカ十章二一節
主イエスの喜びの理由
21節冒頭の「その時」は20節の「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」を受けている。21節は父なる神に対する主イエスの祈りであるが、「聖霊によって喜びに溢れて言われた」と記されている。主イエスが「喜びに溢れて」祈られたと記されているのは福音書中ここだけである。主イエスは喜びに溢れて父なる神を「ほめたたえ」られる。では何をそれほど喜びほめたたえられたのか。
「これらのこと」とは、主イエスによってもたらされた神の国(支配)を指す。具体的には病人の癒しと悪霊追放によって現わされた「救い」である。しかし律法学者やファリサイ派の人々は、イエスをメシアと認めることができず、むしろ神を冒涜するものと断罪した。「隠す」ということによって明らかにされているのは、十字架にかかる救い主などということは、人間の知恵が及びもつかない神の知恵(愚かさ)であり、決して知的探求などによって到達できないことを表している(Ⅰコリント2章14節)。「示す」とは神の啓示を指すが、それは人が「恵みにより、信仰を通して救われ」る(エフェソ2章8節)ことを指す。このことについてパウロはコリント1章18~28節において詳述している。
22節は、主イエスと父なる神との一体性を強調している。エフェソ1章20節、ヘブライ1章3節などにもっと明確に語られているが、十字架にかかられたイエスは、人であり神(の子)なのである。イエスを見た律法学者たちはそのことを自分たちの知恵によって知ることは決してできないのである。
23~24節は、旧約の偉人たちを引き合いに出す。彼らがどれほど神と親しく交わり、神の御旨を語り預言したとしても、それはどこまでも約束に留まった。しかし今、その約束の成就として救い主が現れ目の前におられるのである。Ⅰペトロ1章10~13節、ヨハネⅠ章16~18参照。
主イエスの宣教活動は、指導的立場の律法学者たちから受けいれられず、無名の人々が従っただけであったが、そのことを嘆くのではなく非常に喜ばれた。高慢な者は、たとえどんなに知恵があり力があっても神の救いに与れない。しかし神は小さい者、へりくだる者を憐れみ救い給う。ここに神の義と愛がある。私たちは主イエスを見上げる時に、その恵みに与って喜ぶことができるのである。