信仰生活をしながら、自分自身の足りなさに気づくことが多々あります。
今日は教会で共に歩む兄弟が、私に対して感じていることを率直に、真摯に話してくれました。
率直に話すというのは、話す側もそれを受け止める側にも勇気がいる行為なのかもしれません。
私は、率直に話してくれて始めて、自分の良い面を言ってくれるとそんな風に思われていたのかと感じて嬉しいし、逆に足りなさを指摘されると、自分自身が正されるので認めるのが苦しいこともありますが、素直に話してくれることが、とてもありがたいものです。
なので、年下の人でもどんな人でも、大抵は「ごめんなさい」と躊躇なく謝ることができます。
特に、日本人の気質は、本音を話したり、率直に話すという機会が少ないのかもしれません。その分、お隣の韓国人は、率直に言いたいことを遠慮なくぶつけ合うようです。どちらが正しいということではありませんが、率直に向き合うこと無しには、真の人間関係は成り立ちえないと感じます。
すべての人間関係は、小さなすれ違い、些細なことから出発するように思います。自分が思うよりも、周りは私のことを理解できていないのかもしれません。
そういう意味でも授受作用(会話)で自分の感情を表現することがとても大切だと感じます。それはただ自分の考えを押し付けるという次元でなく、お互いを理解しより深い関係を作るのに必要なことだと感じています。
毎日の生活で、どれだけ身近な人と心の通った会話をしているのか、どれだけ目の前の人を受け止めて会話することができているのか、人を喜ばせる言葉遣いをできているのだろうか。
感情を正しく理解し、正しく伝えられるように、日々のコミュニケーションを見直す機会にしたいと思います。
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