私は面会を必ずしも歓迎したわけではありません。「こんなに騒々しく来るとは。何しに来たのか」と叱ることも多かったのです。それでも、彼らはぽろぽろと涙を流しながら私に付いてきました。信仰とはそういうものであり、愛もまた同様です。私が言葉巧みに話すから私を慕うのではありません。私の心の深い所にある愛をしったがゆえに私を慕うのです。彼らは私の真実の心を理解してくれました。手錠をかけられて裁判に行く時、私を捜してあちこち歩き回った信徒たちを死んでも忘れることができません。被告席に座った私の姿を見てしくしく泣いたその顔は、いつも私の記憶の中にあります。
「いくら人を狂わせようとしてもあれほど狂わせることができるだろうか」刑務所の看守らが、押し寄せる信徒たちを見て、そう言いました。(『平和を愛する世界人として』P142~143)
西大門刑務所に無実の罪で収監されていた頃の文先生の様子です。
統一教会と文先生がこれ程までに反対されながらも、どうして信じるのか。
それは、私たちが先生の心の深い所にある真実の愛を知ったからかもしれません。愛の磁石に引き寄せられて、私たちも先生を慕わざるを得ないのかもしれません。
お父様に全てを捧げる心情を持ちましょう。これが私たちの使命であり、たどり着くべきゴールなのです。(孝進様のみ言より)


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