大学図書館の本は、財産扱いのため、図書を捨てるためには、財産の抹消手続き(廃棄手続き)を経なければならない。そのため、大きな大学の図書財産は、数百億円に達することも、普通である。(図書財産は、その大学の財産の相当量を占めることもめずらしくない。東大では、400億円から500億円の規模になる。)

 

図書は普遍的な価値があるということで、原価償却されることなく、50年前の図書は、50年前の価格がそのまま計上される。しかも、50年前は、1ドル360円であったので、洋書の価格は、非常に高い。

 

この現象は、実は、大学図書館や公共図書館という図書館だけの問題ではない。

 

個人の蔵書は、その個人が読むことによって、その価値は無限に変化する。安価本でも、時にして、人生を変えてしまうという本もある。どんなに高価な本でも、読まなければ、その人にとっての価値は存在しないといってもいい。

日本人の平均寿命が、80年という長期間にわたると、人生の中で、読んだり買ったりする本も存在する。

かつての日本家屋では、床の間があり、居間があり、客室があり、寝室があり、そして、大きなLPレコードを聞くためのステレオがあり、そこには、巨大なスピーカーがついていた。また、その横には、日本文学全集100巻、世界文学全集100巻、巨大なブリタニカ百科事典、広辞苑、さながら、ミニ図書館のごとく、本が並べられていた。

 

高度経済成長にともなって、本が次々と出版され、それを購入した本が、家の中にたまり、それが、行く場がない。

テレビやラジオ、掃除機なら、使用とともに、壊れていくので、買い替えが発生するが、本は、読まれた後も、家のなかに居座る。家の許容量は満杯のはずなのに、本が増えて、行く場所がない。

 

さて、買われた本は、日本の家の中に、存在し、その存在の許容量が限界を超えて、置く場所が存在しないことが、出版不況の原因である。

読書家が、本を買わずに、公共図書館を利用するのは、公共図書館が無料だからという理由だけではない。公共図書館は、本の置き場として、存在し、読んだ本を、家においておく必要がない。しかも、捨てるわけでもないので、

「罪悪感」がない。

 

ラジオやテレビ、掃除機には、作ったメーカーは、表示されるが、誰か作ったかは、表示されない。

 

100分で名著で、石ノ森章太郎の特集で、「残留思念」という言葉を生み出したといっていたが、

 

本には、作者の「残留思念」が込められているので、本を捨てるのは、心理的に抵抗も多い。

本には、「残留思念」「メッセージ」「創造空間」、ラノベ風にいえば「異世界」の塊である。

 

その意味で、神社のお札やお守りと似ている。

そこで、神社やお寺は、非常に、巧妙な方法を思いつく。お札やお守りに有効期限を設定して、新しいお守りに交換する必要性を生み出した。

回収こそ、ビジネスの成功例である。

 

最近、壊れたパソコン、テレビ、自転車は、捨てる方法が難しい。(それゆえに、販売不況だ。)

(いまなら、オリンピック金メダルのために、パソコンを捨てられるかもしれない。)

 

本は、もともと捨てるのが難しい。そこで、登城したのが、Book off だ。この登場のおかげで、出版不況は、延命して来たのだろう。

 

しかし、延命の限界もある。

 

アップルの時価総額が、とんでもない額になっている。

倒産寸前で、マイクロソフトや、キャノン、三洋に、助けを求めていたのに、不死鳥のようによみがえり、いまや、時価総額がとんでもないことになっている。

そのきっかけは、三洋の音楽配信技術が、三洋にあったからだ。

デジタル情報を、無限の数売るビジネスの可能性を、アップルはきちんと見抜いたが、三洋はそれができなかった。(日本の場合は、法律の壁も大きいので、技術だけでは、成功できない場合が多い)

 

アップルのマックの構想は、ゼロックスのコンピュータ技術の着想にもどいていて、ゼロックスアイデアが、マックを生み出した。

たぶん、iPhone,iPad も、いろんな技術を参考にしているに違いない。

ビジネスというものは、そうゆうものだ。

日産が新車をだせば、トヨタがその車を買って、ネジ一本まで、分解して、日産の車を調べるのは、当たり前だし、トヨタが、新車をだせば、日産も同じように分解してみる。

 

それが、ビジネスだ。

 

アップルに続いて、アマゾンの時価総額もとんでもないことになっている。

アマゾンは、物理的ま製品をたくさん売っているが、本当は、デジタル本、デジタル音楽、デジタル映画がもっと、たくさん売れれば、アップルなど、あっという間に追い越せると思っているに違いない。

元手が少なくて、ぼろ儲けの製品だ。