魅力的な人になるということ | ツインソウルによろしく

そもそも魅力的な人ってどういう人のことを言うのだろう。

 

魅力的な人というのも感じ方、捉え方様々にあると思います。

 

加えて言えば魅力的な人でなければならないということもない。

 

魅力的な人になりたくないという権利だってあるし、多分多くの人は魅力的になることは損だと思っている。そして多分その判断は間違っていない。神社に沢山の人がお詣りする時の神様の気持ちになるのだ。

 

だから多くの人は自分の外壁を“自我”で塗り固めて、極力エネルギーを奪われないように努めるのだろう。

 

大人になるまでに集めた沢山の偏見のコレクションで身を固くする。

 

でもそれは世の中の固定化した概念が一様に通用していた時代の話。

 

偏見のコレクションの代名詞である、地位とか、肩書きとか、資産の多さとか、今もまだ通用する部分があるものの、最早それらはまるで液状化現象のように土台から溶け始めている。

 

変化の時代においては柔軟性がないというのが一番のネックになる。かつては通用していた偏見にしがみつくほど困難が待ち受けているだろう。そういう人達は大抵はグループ化するだろう。グループ化することで偏見のエネルギー値を高め、世の中で一定の勢力を保とうとするだろう。

 

でもそのやり方自体が前と何も変わっていない“新しい宗教”の誕生なのだ。

 

多くの人はこの混沌として先の見えない時代に、安心と安全を得るために“新しい宗教”を探している。それはつまり、寝た子が起こされてまた新しい寝床を探しているということを意味する。

 

それで少しも問題はないが、そういう人は僕の目から見たら魅力的な人には映らないのだ。

 

僕が感じる魅力的な人とは、幾つになっても固定化された概念に縛られず、これまでの長い経験の上に培ってきたものさえ手放せて、新しいことに対して柔軟で、どんなことからも好奇心をもって学ぼうとしている人、

 

そういう人は大概周りからエネルギーを奪われるものだが、どんなにエネルギーを奪われ続けようと諦めずに続けていき、やがて内側からどんどんエネルギーを充填出来るようになった人。

 

そういう人は例えどんなに世の中が混沌としていても、群れずに世の中を渡っていけるだろう。新しい宗教にのめり込まなくても、自由に世の中を泳ぎきっていける。

 

三次元的な意味での自我、いわゆる偏見のコレクションはないのだが、本当の意味での自分を持っているので、如何なる宗教に依存する必要もないのだ。

 

 

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、そういう人を目指すのがいいと思う常。

 

 

魅力的な人になるのに制限はなく、貴方が魅力的な人になるのに足を引っ張る人がいると思うのは幻想で、貴方が貴方自身にリミッターをかけているだけ。

 

今こそリミッターを全解除して、本当の自分自身を発動すべき機運です^^