小田原と聖地とアセンションと♪ | ツインソウルによろしく






こちらは小田原のお店となります^^結局6月23日はどなたからもお問い合わせもなく・・・寂^^;タグつけ作業とか、売上チェックとかディスプレイに没頭しておりました。

こちらのお店は8月いっぱいをもちまして、館ごと閉店となるのですね。その間の管理運営を僕が全て賄わなくてはならないので、あと2か月何とか頑張りたいものですね^^

小田原までは東京からは電車で約1時間半ほどかかりますけれども、何処かに“行かされる”場所というのはそれなりに自分にとってご縁のある場所だと思いますので、最後まで滞りなく努めたいものです^^

『聖地って何処?』

よくスピ系の集まりかなんかで、どこそこが聖地だとか、やれ古い神様の眠る土地だとか、そういった“物語”と共に、“神事”とか、スピ系イベントを開催し、有意のある方々で集まって暮らそう!みたいな動きがあったりしますけれど、個人的にはやや懐疑的な見方をしていますね。

僕も一時期“里山資本主義”みたいな、志の高い人達で集まった小自治集落を作るというのはありかな?と思っていましたが、今でもその思いが完全には消えたわけでもありませんけれども、

なんていうか、聖地、パワースポットというものを、“パワーストーン”に置き換えてみると、確かにパワーストーンを身に着けていると、浄化が図れたり、自分にとって良い効果がみられる場合があるかも知れないけれども、一切何も身に着けないで万全な状態を保てれば絶対そちらの方が良いと思うのですね。そう考えると、場所なんか何処でもよくって、たまたま今自分のいる場所が自分にとって最適な場所になり、その後何処に移り住もうと常にその場所が最適になる、という方が遥かに自由でパワフルだと思うのですね。

ましてや自分の住んでる場所に深い“物語”がついている・・・初めは良いと思うかも知れませんが、物語というのは“因縁”という言葉に置き換えることも可能だと思います。その土地の眠れる神様なんかを揺り起こしてしまったら・・・

しょっちゅう“神事”をやらないとならないってことになってしまいます><;イベント化して盛況に盛り上がって楽しいうちは良いかも知れないけれども、もしもそこに移り住んだ場合、イベントがある度に半ば“強制参加”の圧力がかかるんじゃないかと思ってしまいます。冷静に“暮らし”ということで考えてみれば、何もないことの方にむしろ平和というものを見出してしまいますね。

そういうのが根っから好きな人はいいけれども、僕は常に自由でいたいし、そのしがらみって正に“三次元”そのものなんですよね。今という時代はどこで何が起きるか分からない時代ではあるけれども、『聖地』とか、『約束された大地』に移り住むとしたら、それは“恐怖”を克服出来ていないということでもあります。もちろん誰しも安全な土地に暮らしたいものだけれども、覚悟を決めて、今この場所で何かあれば抵抗せずに潔く死ぬって決めれば、何も恐れるものはなくなるから、今からその場所が『聖地』になるようにも思うのです。

聖地には魂の同胞達が沢山集まってくるというかも知れないけれども、いつだって自分の周りは魂の同胞達のはずなんです。ただしそれが自分の期待するものかどうかの違いがあるだけであって。そしてもしも期待しない魂の同胞達に囲まれている場合があったとしても、そこを超えていくことで自分のスキルが磨かれていくのであって、「いいね!」「いいね!」のポジティブな仲間同士でいたら、自分の闇なんか見れないし、当然スキルも上がっていかないのですね。

“理想郷”というのは本来テンションの上がらない場所のはずなんですね。もしもテンションが上がるならそれは何かに“期待”しているということでしょう。巨大迷路に入る前に出口までのルートが全部分かってしまったらテンションは上がらないですよね。全知全能になっていくほど人生はつまらないものになっていくってことです。でもその代わり常に内なる歓びに満たされていて、それは誰の手によっても決して阻害されることはなく、その内なる波動に同調する形で外側の現実が展開されていく、だからそれは例えテンションが上がらなくてもやはり驚嘆すべき現実を紡ぎ出すということは言えるでしょう。

その場所こそ自分にとっての本当の“聖地”と言えるのではないでしょうか。


とはいえ実は僕自身相当にお祭り好きな部分があり、こうした“閉店セール”をやっていることだってお祭りと言えばお祭りなんですね。これまでに各地で何度やってきたことだか。祭りというのは、奉りに通じるので、やはりその土地に存在する“何か”を尊重し、慰霊していることに違いはないかなって思ってしまいます。存在というものは集合意識と無関係では決していられないので、実はそういう壮大なスケールの物語というのは、誰しももっていると思うのですね。

でもそれを敢えて物語とせず、淡々とこなしていくことが胆のようにも思います。何故なら本来の意味での“浄化”とは、その場所が手つかずの状態にまで戻されることをいうのではないかと思うからです。そこに何の思いも残っていない状態になってこそ、全ての魂は自由になってどこかに旅立っていったということだから。

大きな物語を宣伝してそこに沢山の人を集めてしまうと、そこは“特別な場所”になってしまうので、色んな想念が集まってきて浄化とは無縁の状態になるだろうと思います。つまりはまだまだ地球で意味をもって暮らしたい人がいらっしゃるということでしょうね。


僕の今後の出没予定は、厚木、海老名、相模原、秦野方面になりそうです。9月くらいに動きがあるかな?まだ具体的なことは決まっていませんが、お近くの方はお声かけを頂けるとありがたく思います^^