日本国憲法とインド憲法 | にっし~の世の中思ったこと考えたこと(西形公一のブログ)

にっし~の世の中思ったこと考えたこと(西形公一のブログ)

にっし~(Nissy)が世界のこと、社会のこと、政治のことや選挙のこと、そのほか広く世相のことについて感じたことを、小ネタ中心に書いていきます

日本国憲法は「新憲法」だと、よくいわれる。
旧「大日本帝国憲法」に対する意味で、よく使われる表現である。

ところが最近、世界各国の成文憲法(イギリスのような
不文憲法の国は数えない)187カ国のうち、日本国憲法は古い方から
14番目にある、という話を聞いた。
実際に検証したわけではないし、数えてみるとレバノン(1926年)のように
独立前からの憲法が数えられるいっぽう、トンガ(独立国ではなかったとは
いえ、なんと1875年制定!)が数えられていなかったりするので、
定義によるところもあり難しい部分もあるのだが、特に冷戦終結後の
この20年は先日も書いたとおり、体制変革ラッシュとなったこともあって
何と93カ国が新しい憲法(既存憲法の改正ではない)を制定している
ということで、そういう意味では間違いなく日本国憲法は悪く言えば「古い」、
しかし良く言えば「歴史と伝統の重みがある」憲法になったのだと思う。

ところで日本国憲法が公布された1946年(施行は翌年)もまた、
第二次世界大戦直後であると同時にインドの独立など植民地主義が
終わりにむかった時期でもあり、体制変革ラッシュの時期であった。
そういう時代背景は、押さえておいてもよいだろう。
今日はそのインド憲法について考えてみることにする。

インドは誰もが名前を知っている大国であるにもかかわらず、
日本との心理的距離が遠い期間が長かった。そのため日本での
インド研究はあまり進んでいるとはいえない。あるいは、分野に偏りが
ある。憲法研究も例外ではなく、日本語での研究は少ない。最新の
改正憲法は日本語訳がない。
ただ補助公用語(事実上の第二公用語)が英語であるため、英語文献は
非常に豊富である。このため先行研究に触れることは、かなり容易である。

にっし~の世の中思ったこと考えたこと(西形公一のブログ)

インド憲法の起草者にして不可触民解放の父、
ビームラーオ・アンベードカル

そのインドの憲法だが、公布年は1949年。翌1950年の1月26日に施行された。
この日はインドにおいて「共和国記念日」となっており、さながら独立記念日
(8月15日)と並ぶ第二建国記念日の様相を呈している。なぜ「共和国」記念日と
呼ぶのかが興味深いところだが、実はインドが1947年8月15日に独立した際には、
イギリス連邦のなかの自治領(ドミニオン)としての独立だったのである。
このドミニオンというのは、いまのカナダやオーストラリアと同じで、イギリス国王
(現在ならば、もちろんエリザベス2世女王)が国家元首として君臨し、
その代理として総督を置き、そのもとで議会と首相が率いる内閣が統治する、
というシステムである。つまりインドは独立当初は王国であり、
映画『英国王のスピーチ』で知られるイギリス国王ジョージ6世がインド国王の
地位にあった。しかし、その間はいわば暫定統治期間であり、インドの最高法規は
イギリスの法律である1935年インド統治法および1947年インド独立法であった。
そして独立を達成した後、インドは憲法制定議会によって自らの手で
正式な憲法の制定に取り掛かった。そうして約3年の議論の結果、
インドは植民地色を残したインド国王や総督といったポストを廃止し、
共和国となることを選んだのである。その立役者であるインド憲法の父こそ、
カースト制度によって残忍非道な差別を受けてきた不可触民出身の
アンベードカル初代法務大臣(憲法起草委員長を兼任)であった。

この憲法制定の経緯は、日本国憲法のケースとは大きく異なっている。
日本の場合、先に占領下で日本国憲法を制定し、その後に
サンフランシスコ条約の発効(1952年4月28日)を経て独立を回復した。
このことがハーグ陸戦法規第43条に照らして占領下での法規の変更は
無効ではないかとする議論を生み、また日本国憲法の制定に大きな影響を
与えたとされる「憲法研究会案」においても、先日にこのブログで指摘したように、
末尾に「新憲法」を10年程度の暫定憲法と位置づけた上での
国民投票による新憲法(新・新憲法というべきか)制定を求める条項を置くことにも
つながったのである。

筆者がインドのとある田舎町の床屋で、こんな質問を受けたことがある。
「日本はサムライの伝統がある国で、アメリカに原爆まで落とされた。
 それなのに、なぜアメリカと共にイラクに軍隊を派遣するのか?」
この質問をしたのは左派かムスリムのインド人だと思うのだが、
そのときは「自分自身はその外交政策を支持していないので…」と
答えるのが精一杯だった。が、後でよく考えれば「日本には今日も
アメリカの陸軍、海軍、空軍、海兵隊が駐屯している。つまり日本は
インドと違い、今も完全な独立国ではない」と答えることもできたのでは、
…と思ったりした。

にっし~の世の中思ったこと考えたこと(西形公一のブログ)

ジャワハルラール・ネルー初代インド首相

いっぽうインドは違った。憲法制定には日本以上に時間をかけた。そこには
外国の軍隊はすでにいなかった。さらに政体まで変更した。残忍非道な
不可触民制度の絶対的廃止も盛り込んだ。そのほか様々な工夫をこらした。
以上を瑕疵のない法手続きを踏んだ。だからこそ「共和国記念日」は
独立記念日と同等に扱われる、第二の建国記念日となっているのである。
そして日本との関係では、そのインドがサンフランシスコ条約への参加を、
完全な独立をもたらすものではないとして、ネルー首相みずからの判断で
拒んだことも忘れてはならないだろう。そして日本の独立回復のわずか2カ月後、
独自の講和条約である日印平和条約を結んでいるのだ。

もちろん、そのような憲法を作ったインドがその後、順風満帆だったわけではない。
政治的暗殺も相次ぎ、ネルーの娘、インディラ・ガンジー首相もその犠牲となった。
パキスタンとの対立は核兵器を向けあうまでに悪化した。国内にはなお
膨大な極貧層と低い識字率を抱えている。大国である割には、人間開発指数も
お世辞にも高いとは言えない。しかし当のインディラ政権による
非常事態宣言などはあったものの、今日までクーデターなどとは無縁で
法的な継続性を保ってきたことは事実である。加えてインド憲法がアメリカ憲法を
参考に、修正条項を追加することによる憲法改正を絶え間なく続けていることも
事実である(制定時で395条に及ぶ長大なインド憲法は規定が詳細なため、
年に複数回ペースでの頻繁な改正を要する。また修正条項の採択には
基本的に議会両院の3分の2で足りる)。そのなかには「社会主義」の語を
織り込むものもあった(1976年。この「社会主義」は共産主義を意味する
ものではないが、背景にはインディラ政権による非同盟運動を踏まえた
対ソ連接近策があった。それは非米政策であると同時に、中国対策でもあった)。
近年の重要な憲法修正案には、議会におけるジェンダーのクォータ制を通じて、
女性選挙区の設置を義務づける条項などがある(上院は激論のすえ通過したが、
下院はまだ通過していない)。

いずれにしても、インド憲法は哲学の国、聖賢の国インドが
世界に誇るもののひとつであることは疑いない。特にその制定プロセスなどは、
日本国憲法を議論する際にも、もっと参考にされて良いのではないだろうか。
インド憲法も今や日本国憲法と並んで
「歴史と伝統の重みがある」憲法なのだから、お互い良い影響を与えられれば
何よりだと思うのだ。

にっし~の世の中思ったこと考えたこと(西形公一のブログ)

佐々井秀嶺師、アンベードカルの肖像を背に。

最後に「インド憲法の父」アンベードカルについてもう一言。彼は法務大臣として
憲法の次に新しい家族法の制定に取り組もうとしたところ、ヒンドゥー保守派の
抵抗にあって頓挫。無論それ以前から残忍非道なカースト制度を抱える
ヒンドゥー教には批判的だったのだが、ついに1956年10月14日、人生の最後に
数十万の支持者とともに仏教に改宗するのである。
その後、インドの仏教は抵抗に遭いつつも拡大を続けており、
日本出身の僧アーリヤ・ナーガルジュナ(佐々井秀嶺)が
連邦政府マイノリティ委員となるなど、その力は侮れなくなっている。
旧・不可触民たちのエンパワーメント、そういう角度からも
日本との関わりが強くなると良いなと思う。

にっし~の世の中思ったこと考えたこと(西形公一のブログ)

インド仏教は「憲法の父」アンベードカルの遺志と人道思想を継いで歩む