みなさんこんにちは。研伸館の中村です。成人の日ですね。新成人のみなさん、おめでとうございます。立派な大人になってくださいね。
それでは、『名人伝』の続きです。
②②-3至為《しい》は為《な》す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。
さて、難しい表現が出て来ました。漢文っぽい表現を用いることで、古代中国の物語である雰囲気が出ますね。ただ、そんなに難しいことを云っているのではありません。
「至為は為す無く」、「至言は言を去り」、「至射は射ることなし」の三つは、全て同じ文型をしていることに気付けますね。
「至A」は「Aを否定」
となっています。「至」は、行き着く所、到着点を意味します。たとえば、大阪から東京に行く電車ならば、「自大阪→至東京」って書いてありますよね。
「至為は為す無く」だと、「為《な》す」ことの「到着点」に達すれば、「為す」ことは「無く」。簡単に訳すと、やることをやってしまえば、やることがない。もっと簡単に訳すと、物事を極めれば、することはない。
同様に、「至言は言を去り」だと、言論を極めれば、言葉は必要ない。「至射は射ることなし」だと、弓矢の道を極めれば、矢を射る必要はない。
そんな感じですね。だいたい分かりましたか?一つの道を極めた者が言いそうなことですね。もっと簡単に云うと、マラソン選手がゴールに辿り着くと、もう走る必要なんかないですよね。
どうも紀昌は弓矢の道を極めたようです。
研伸館 中村公昭