隣に眠る妻の顔を見つめる。
静かな寝息。
頬がわずかに緩んでいるのを見て、胸の奥が少し温かくなる。
――最近、ようやく笑うようになった。
それだけで救われるような気がして、手を伸ばしかけて、そっと引っ込めた。
けれど、あの夜のことは消えてくれない。
雨が降りしきる夜。
帰ってこなかった。
連絡もない。
時計の針ばかりが進んで、静かな部屋がひどく広く感じられた。
「……どこ行ってんだよ」
声に出しても、返事はない。
何度も電話をかけて、何度も切れた呼び出し音だけが残る。
それでも待つしかできなかった。
翌日。
夕方、玄関の扉が開いた。
「……ただいま」
小さな声。
瞳の奥に、深い寂しさが沈んでいた。
俺は一歩、近づきかけて止まった。
問い詰めたい言葉が喉に引っかかり、吐き出せなかった。
「……おかえり」
やっと出た声は、それだけだった。
最近、冨岡が海外転勤になったらしいという話を耳にした。
その瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
「……そうか」
独り言のように呟いて、笑ってしまう。
影が遠ざかっても、心まで離れてくれるとは限らない。
そんなこと、もう分かっていた。
夜、布団に潜り込む。
隣の温もりに手を伸ばし、腕を回す。
妻は驚いたように身じろぎしてから、そっとこちらに体を預けてきた。
「……どうしたの?」
「別に」
「ふふ……あったかい」
囁かれた声が胸に沁みる。
俺はただ髪を撫で、腕の中に閉じ込めた。
「……ここにいれば、俺はそれでいい」
それ以上は何も言わなかった。
彼女の体温を確かめるように目を閉じ、眠りへ落ちていった。