朝の光が差し込む台所。
あなたが振り返りながら、何気なく問いかける。
「今日も帰り遅い?」
実弥はネクタイを締め直しながら、一瞬だけスマホに視線を落とした。
画面の隅に浮かぶ通知。
『会いたいな』
『不死川くんが隣にいたら安心するのに』
ポケットに押し込むようにしまい込み、短く答える。
「……まぁ、ちょっとな」
あなたは「そっか」と頷くだけで、それ以上は何も聞かない。
その静かな優しさが、かえって胸をざわつかせた。
***
夕方、仕事を終えた実弥のスマホがまた震える。
『今、近くにいるんだ』
『顔だけでも見たい』
立て続けに届く文字。
足を止め、しばらく画面を見つめたまま動けない。
「……俺は、どこへ行くつもりなんだ」
低くつぶやいて、ため息を吐いた。
気づけば、足は自然とカフェへ向かっている。
人通りの少ない通りに、小さな灯りが漏れていた。
その前で、彼女が待っていた。
「来てくれると思った!」
弾む声に、実弥はわずかに眉をひそめる。
「……少しだけだ」
視線を逸らしながらも、扉を押して中へ入った。
カップを手にして向かい合えば、会話は思ったよりも自然に弾んでいく。
彼女は笑顔で昔話を持ち出した。
「やっぱり不死川くんは変わってないよね。あの頃も、みんなの憧れだった」
「……大げさだ」
「本当だって。私にとっては、今でもそう」
熱を帯びた視線に、喉の奥が乾いた気がした。
「こうしてまた会えるなんて、運命だと思わない?」
彼女がカップを差し出すとき、指先が腕にかすかに触れた。
「あ、また触っちゃった。ごめん」
わざとらしい軽さの中に、確かな意図が透けて見える。
実弥の身体は瞬間的に強張った。
拒絶の言葉が喉まで上がったのに、押し返すことはできない。
その曖昧さが、彼女をますます大胆にさせていく。
***
外に出ると、夜風が頬を撫でた。
吐く息が白く揺れる中、彼女が小さな声で言う。
「また会える?」
実弥は迷いのあと、同じ言葉を繰り返した。
「……考えとく」
彼女は満足そうに微笑み、街灯の光の下を歩き去っていく。
残された実弥の胸には、重たい影が沈んでいた。
***
玄関を開けると、温かい灯りと匂いが迎えてくれる。
「おかえり」
あなたが食卓に箸を並べながら笑顔を向ける。
その笑顔に胸が締めつけられた。
けれど、ポケットのスマホがまた光る。
『今日は楽しかった、ありがとう。また会いたいな』
湯気と温もりの中、その小さな光だけが、不穏に輝いていた。