あなたがカップを差し出しながら、いつもの調子で訊いた。
「今日は一緒に夕飯、食べられる?」
実弥はマグを受け取り、視線を落とした。
テーブルに置いたスマホの隅に、小さな光が点く。
――『夜、ご飯行こうよ』
――『会いたいな』
親指が一瞬だけ動いたが、すぐに画面を伏せる。
「……どうかな。ちょっと予定が詰まっててな」
言葉は短く、声だけがわずかに硬かった。
あなたは「そっか」と頷くだけで、余計なことは言わない。
その静けさが、胸の奥で鈍く響いた。
***
夕暮れの風は、昼よりも乾いている。
待ち合わせの場所に着くと、彼女はすでに立っていた。
髪をまとめ、少しだけ華やいだ装い。
「不死川くん!」
手を振る笑顔は、あの日と同じ温度でこちらに向かってくる。
実弥は視線を逸らし、口だけで言った。
「……飯、食うだけだ」
「うん、知ってる。ね、行こ」
並んで歩く足音が、街のネオンに紛れる。
入った店は、落ち着いた照明の小さなレストラン。
テーブルに運ばれる皿の色が、夜の気配を柔らかく映した。
「覚えてる? あの頃の不死川くん、いつも前を見ててさ」
彼女はグラスを傾け、笑う。
「みんな好きだったよ。私も。……今だって」
「……大げさだ」
言いながら、ナイフの先がかすかに皿を鳴らす。
彼女は身を乗り出し、取り分けた料理をそっと差し出す。
手首が触れそうな距離。
テーブルの下で、つま先がふいに当たる。
「あ、ごめん」
笑って言う声音に、謝る気配はほとんどない。
会話は途切れず、昔話と今のことが行き来する。
「こうしてまた会えるなんて、本当に嬉しい」
その一言が、胸のどこかに小さく残った。
運ばれてきた皿の湯気、笑い声、薄い音楽。
外側のすべては滑らかに進んでいるのに、内側だけが少し遅れている。
***
店を出ると、夜風が熱をさらっていく。
街角の影が長く伸び、信号の赤が足元を染めた。
「もうちょっと歩こう?」
彼女が腕に軽く触れる。
身体が瞬間的に強張る。
皮膚の下、筋肉がひやりと固まる。
払いのけたい衝動が胸を突くのに、指先は動かなかった。
「ねぇ」
立ち止まった彼女が、顔を上げる。
「……やっぱり帰りたくない。もう少し、一緒にいたい」
言葉が空気に溶けるより早く、彼女は一歩近づいた。
背伸び。
柔らかな髪の匂い。
ほんの一瞬、視界が揺れる。
唇が触れた。
呼吸の仕方を忘れるほど短いのに、確かに触れて、すぐ離れた。
彼女は照れ隠しの笑みを浮かべる。
「ごめん、止められなかった」
声が出ない。
喉に張り付いた何かが動かない。
視線を逸らし、夜風を吸い込む。
「……帰れ」
低く、短く。それだけを、やっと押し出す。
「やだ」
彼女は腕をつかんだ。
「もっと一緒がいい。今日、帰りたくない」
指先に力がこもる。街のざわめきが遠くなる。
「帰れ」
もう一度、同じ言葉。
今度ははっきりと振りほどく。
彼女の手が空を切り、少しだけ寂しそうに笑って、ふっと目を伏せた。
「……また連絡するね」
夜の人波に紛れて、その背中はすぐ見えなくなった。
残ったのは、指先に残る微かな熱と、胸の底で鈍く転がる音だけ。
***
深夜。
玄関の鍵が静かに回る。
灯りは落ち、廊下は暗い。
靴を脱ぎ、息を殺して寝室の戸を開ける。
あなたはもう眠っていた。
規則正しい呼吸が、白いシーツに小さく波を作っている。
頬に落ちる髪を指で払うと、月明かりが横顔の輪郭を薄く縁どった。
胸がきしむ。
思考はうまく形にならず、罪悪感だけが輪郭を持っていく。
「……俺は、何やってんだ」
声にならない声が、口の中で崩れた。
ポケットの中で、スマホが光る。
画面を伏せても、背面から滲む青白い明かりは消えない。
――『今日は最高だった。次はもっとゆっくり会いたい』
通知は確かにそこにある。
あなたの寝息も、確かにここにある。
実弥はスマホを裏返したまま、ベッドの端に腰を下ろす。
額を手で覆い、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏を、さっきの短い接触が何度も何度も横切る。
隣の温もりに身を沈めれば、少しは眠れる気がした。
それでも、指先に残った熱はなかなか消えない。
夜は長く、静かで、やけに明るい小さな光だけが、暗がりの中に残り続けた。