遺跡の調査には、学術調査と開発に伴う調査があり、前者は、遺跡の保存を前提に行う場合が多く、後者は開発等に伴う破壊を前提に行うことが多いようです。
 基本的には、遺跡は遺構や遺物がそのままその地に保存されるのが望ましいと思います。しかし、ビルや道路の建設で、遺構が眠っている深さまで穴が掘られ、破壊されてしまう場合など、その遺構の保存自体が難しい時、記録保存(しっかりと調査をして、記録の中で保存するという考え方)という方法が採られます。
 今日、難波宮(大阪)の造営前の木簡が出土し、そこには日本最古(7世紀中頃)の万葉仮名の短歌?が記されていたという記事を目にしました。マンション建設のための調査ということで、残念ながらその遺跡自体は保存されないようですが、ものすごい発見です。
 紙がなかった昔、人々は、木の細い板に墨で字を書きました。溝や水田など、湿気の多い所に埋まっていると、当時のまま見つかることがあります。まさに、タイムマシーンです。当時の人たちの行動や考えがわかる本当に貴重な資料です。静岡でもいくつか見つかっています。 ところが、歴史博物館のない静岡県では、このような一級の遺物を見る機会になかなか恵まれていませ
ん。公共事業の是非が問われる時代ですが、歴史博物館がないというのはいかがなものでしょう?
 教員時代、空き教室に市で一番の歴史資料室を作ろうとしました。旧清水市や学区内でお宝をもっている人から借りて、展示をしました。子どもたちには好評でした。しかし、限られたスペースであり、限界がありました。通史的に自分たちの住む地域の歴史を知りたいという気持ちは子どもたちにあります。しかし、そういう知的な欲求を十分満足させる場所がないんですね。
 他県に行くと、とっても充実した博物館があります。ちょっと無駄遣い的な気もする場所もありましたが、でも、歴史を学びたいときには力強い味方となってくれます。
 どでかい博物館でなくとも、歴史を学べる施設がしっかりと整備されていることが重要だと思います。
 現在住んでいる東京都府中市周辺には、いろいろな施設があり、時々訪問しています。子どもたちの姿にも出会います。静岡市には、登呂遺跡があり、登呂の資料館がありますが、あくまでも登呂の資料の展示が目的。静岡市の歴史を全体的に表現する場所ではありません。また、清水区には、埋蔵文化財センターがありますが、これはあくまでも埋蔵文化財の整理が目的で、展示スペースも沢山取れません。70万を越える静岡市民の歴史を学ぶ場所の整備、これは非常に重要なことだと思っています。
 静岡でも開発に伴う調査、学術調査が毎年いくつも行われています。そして、貴重な資料がどんどん得られています。しかし、それらを満足に展示・紹介する場所がないのです。これからもっともっと遺跡発掘に伴い資料が増えるでしょう。歴史博物館について、ぜひ検討すべきだと強く感じます。
 
 

 静岡市清水区庵原にある野球場の駐車場には、移設された古墳があり、しかも自由に入ることができる。

この古墳は、塔作8号墳。今から9年前に発見されたもので、こどもたちの学習用にこの古墳だけ残されて保存されたのだ(発見された19個で一番残りがよかった)。多分、今の野球場のバックネット入口付近にあったと思われる。

塔作8号墳

 実は、この古墳群の発掘作業に携わっていたので、ちょっと思い入れもある。一つだけだが、残って後世に伝えられるというのはうれしい。今後、大いに活用してほしいなあと思う。ただ、説明の看板の情報量が少なく、例えば、見つかった二つの土器(須恵器)や発掘時の様子を示す写真があったり、参考書物の紹介があれば、小学生の学習に役立つかなあと思う。

 自分のウェブに少しの説明がありますので、よろしかったらお立ち寄り下さい。→ここをクリック

駿府城石垣01

 ここのところ時間があると、駿府城の石垣を眺めることにしている。というのは、石垣の組み方が実にいろいろあり、観ていると当時の人の工夫や苦労が何となく感じられるからである。

 写真は、静岡市役所前付近の外堀。算木積みと呼ばれる積み方でコーナーをきっちりと処理し、その周辺は美しい切り込みはぎである。積み方にはいくつかの方式があるが、例えば、同じ切り込みはぎにしても、細かく観ていくと、随所に違いがある。この違いの発見が実におもしろいのである。

 ところで、写真の右側は、明治以後に積まれたものであるが、ゆかいなカーブを描いている。これは、明らかな鉄道曲線であり、昭和37年9月までここを走っていた市内線(路面電車)の軌道の名残であろう。今の新静岡センターから複線で市役所方面へ走ってきていた。古い写真をみると、古城跡と路面電車は実にマッチしている。松山や岡山とか、城下町にまだまだ路面電車は残っているが、やはりよい感じがする。

 静岡は、昔のものがどんどん失われているが(市の中心部は発掘しないらしい→なんで?)、昔があって初めて今があり、そして未来がある。駿府城の整備もよいが、その周辺部もあわせて考えていかないと、何となく駿府城だけが浮く感じがする。金沢などは、街のコンセプトをしっかりと決め、そこから整備するから、統一感がある。訪れた人が、金沢がどういう街であるか、感覚としてわかるのである。静岡の街づくり、どうなんだろう?


静岡県金谷町(現島田市)には、旧東海道の面影を残す坂道が二つある。

菊川坂と金谷坂だ。双方とも、石畳が残り、実際歩いてみると、慣れるまで結構しんどいが、しばらくすると平気になって、平らでないぼこぼこ感が楽しくなってくる。

kanaya これは金谷坂のしょっくち

全国で石畳を残す街道は、東海道筋では箱根とここ、あとは中山道だけらしい。

東海道の石畳は、二ヶ所とも保存・復元により復活した。

この金谷坂と菊川坂は、住民の運動により復元された坂であり(一部は当時のまま)、箱根坂も発掘調査をし補修をしている。400年前の坂が手入れなし状態でそのままあるのはあり得ないし、当時も、国道であるからせっせと面倒を見ていたのだと思う。今後も、ある種の国道として、面倒を観ていかなくちゃいけない道だと思う。そういえば、青森に「階段国道」なる国道がある。行くと思わず吹いてしまうが、この国道339号線は、なんと階段なのである。車が通れない国道は多分ここしかないだろう。しかし、国道だから、そんじょそこらの階段とは違うのだ。やたらと整備されている。ここまでやろうとは思わないが、旧東海道の石畳、今後もしっかりと保存し、守っていきたいと思った。

さて、西方面から歩いていき、菊川坂を上りきると、国史跡・諏訪原城がある。この山城は、武田特有の築城方式をもっていて、しかも残り方が半端ではない。

来年、北海道から20名のツアー客がくる。自分が案内することになったが、過去と現代のコラボの成果である、二つの坂と山城、自信を持ってご案内したい。


 久しぶりの書き込みとなった。うーん、いままでちょっとさぼってしまったので、これからはちょくちょく取材して書いていかなくちゃなあ。


 さて、用事があり、新潟県新発田市に数日滞在した。ここには新発田城がある。

私の住む静岡市にも江戸期の城であれば、駿府城がある。しかし、当時の建物は残っていない。新発田城は、縄張りの残存率からしたら、駿府城に勝てないが、当時の門と櫓がしっかりと残っている。これは魅力だ。

 時間がなかったため、ちょっとだけの訪問だったが、それでも歴史の重さをずしんと感じた。

壊してしまえばそれまで。しかし、こうやって昔のものが残っていれば、後生の人間にしっかりとメッセージを伝えていくことができる。

 最近の街づくりでは、昔のものが大事にされるようになってきていると思う。この流れを、絶対に大切にすべきだと思う。

shibatajo-castle


新聞記事を読み、静岡市の藁科川上流に位置する、小瀬戸へ向かった。

ここは、第2東名の工事がとんでもなく進んでいて、昔の面影がかなり消えてしまっていた…。

今回の遺跡発掘調査も、この第2東名関連で生じたもの。開発は、過去からの宝物を二度と甦らないようにしてしまう。しかし、人の営みは、破壊と創造。難しいところである。第2東名の是非はここでは問わないが、開発する際は、せめて、きっちりとした遺跡調査をして欲しいなあと思った。

kosedo-site

さて、小瀬戸の現場では、既に説明会が行われていて、地元の方々が大勢来られていた。中でも、遺物をい観る際並んだ時に、前のおばあちゃんが、とっても感動していたのが印象的だった。「あんた、ウチの畑でもこんなセトモノ出るだよ」と何度も何度も話しかけてくれたので、「この衆(調査員)がいる間に、持ってくればきっと何か教えてくれるよ」と答えた。

10世紀ぐらいからの遺構(掘っ建て柱建物跡が主)は、人々が当時、一生懸命に生きていた姿を十分に想像させる。しかし驚いたのは、ほぼ無傷で、6枚のお皿が出土したということである。見学者の一人が、「鑑定団に持っていきたい」と漏らすほど、なかなかのものだった…。


静岡市には、歴史博物館がありません。ぜひ、眠っている過去からの宝物を、今の人たちにしっかりと伝える施設をつくるべきだと、今回も感じました。

 5/30、朝日新聞夕刊に、佐賀県唐津市の中原遺跡から出土した木簡に、「防人」について書いたものと思われる文字が見つかったことが書かれていました。「甲斐国 □戌(人)」(□→読めない部分)と読めたので、今の山梨から、国を守るためにかり出された人たちについて、触れているのでしょうか?

 そう言えば、この防人がかり出されることとなった、663年の「白村江の戦い(はくすきえのたたかい)」には、清水からも、イホハラの君臣が陣頭指揮を執り、清見潟から出陣し、大敗北をしたことが知られています。尾羽にある尾羽廃寺は、その戦いの犠牲者を祀ったもの、との説もあります。

 7世紀後半、国全体を揺るがす、住んでいたみんなに影響を与えただろう、大きな戦いがあり、犠牲者も多かった。しかし、戦いは、この21世紀になってもあるんですよね。今だ、世界のあちらこちらで、紛争が起きています。もっとも、身近なところでも、もめ事は絶えません。なぜ、なんでしょう?

 歴史に興味をもつためには、やはり本物と出会うことが一番です。

 歴史好き、正反対の歴史嫌い。歴史嫌いの人は、何となく、「歴史」との出会いが不幸だったのかなあ、と思います。別に、歴史が好きにならなくてはならない、という訳ではないのですが、自分たちの先祖が何をしていたのかは知っていてもいいかなと思ったりします。

 6年生の担任をしていて感じたこと。それは、実物の遺物や遺構にであうと、子どもたちのほとんどがイキイキしてくること。興味津々で、くいついてきます。教科書でさらーっとやっちゃうと、まあ、大体、だめです。

 6年生の授業のことを考え、5年生の2学期に、遺跡発掘現場に5年生180人余をつれていったことがありました。そこでは、奈良時代の古代東海道の遺構面が丁度出ていたのですが、説明を聞くと、ごろごろところがって砂をつけて古代のひととのコンタクトをとる子、トレンチの中に入って、登呂層(黒色粘土層)に触ってやはり、弥生人とのコンタクトを楽しむ子。一人ひとりが、歴史を自分なりのスタンスで感じていたみたいでした(あれしろコレしろなどという指示も出さずに見学していたからかも)。6年生になっての歴史の授業は、もうすごかった!盛り上がって盛り上がって、どんどん進度が遅れ困るくらいでした(担任もこだわるので、どんどん…)。

 さて、静岡は全国トップの面積の政令市。その静岡市には、登呂遺跡と登呂の博物館、清水地区の埋蔵文化財センター、これしか公式的にはありません。遺構がそのまま観られるのは、登呂だけ。清水地区にはありません(庵原の野球場に古墳一基が移設保存)。長野県にいくと、そこいらに竪穴式住居の復元モデルがあります。各時代の遺構や復元建物などが、各地区にひとつはあってもいいかなあと思います。

 清水を例に取りますと、古墳と小島の陣屋(石垣)が観ることが出来ます(観察学習が容易)。尾羽廃寺は、瓦のかけらが拾える程度。寺の復元遺構はなし。鎌倉時代前後の武士の館・城では、横山城がほぼパーフェクト。渋川館は、土塁一部残存。堀の痕跡も一部わかります。それくらいでしょうか。

 通史的に、遺跡を通して学びが展開できるように、せめてそれだけの整備、できないかなあ…。

uwamine じきにこわされてしまう、上嶺遺跡(清水区) 

 5月18日の朝日新聞をはじめとして、いくつかの新聞に宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群にある前方後円墳が、国内最古級であったという記事が掲載された。西都原古墳群へは、10年以上前にふらっと行ったことがあり、高台に、250個以上(だったかな)ごちゃごちゃ古墳が保存されていて、とにかくびっくりした記憶が鮮明に残っている。円墳やら前方後円墳やら、形から大きさまでまちまちで、一つひとつ観ていてとっても楽しいところです。

 さて、奈良の桜井市周辺にも、かなり古い古墳があり、ここらあたりも、ふらりふらりと出かけたことがあるのだが、ここの古墳と西都原の古墳がほぼ同じ形であるということに、そのつながりをあれやこれやと記事を読んでから想像してしまいました。

 奈良とのつながりと言えば、清水にある尾羽廃寺。ここの軒丸瓦は、「複弁蓮華文軒丸瓦」であり、明日香の川原寺のそれと形が極似しています。作者が一緒だったと言わざるを得ないくらい、似ています。この尾羽の瓦は、お寺のすぐ裏の「東山田瓦窯跡」や「今泉瓦窯跡」で作られており、やはり奈良と清水(いほはら)とのつながりがしっかりとあったことをうかがわせています。付け加えれば、卑弥呼の鏡といわれている、三角縁神獣鏡が、清水・庵原の午王堂山3号墳から出土しています(清水ゴルフセンター北側前方部)。清水の古墳も、かなり魅力的です。ちなみに、一番古いとされているのは、神明山1号墳です。静清平野では、谷津山の柚木山神古墳、ひょうたん塚古墳、午王堂山3号墳(前方後方墳)、神明山1号墳、三池平古墳が大きな古墳としては有名です。清水・静岡の古墳も観てみるとおもしろいので、休日などはぜひ出かけてみてください!

 現代以上に、かなり密なかかわりがあったのかもしれません。古代へのロマンは、結論がみえにくいだけに、とっても掻き立てられます。清水と奈良とのつながり、以外に多いです。このあたり、今の子どもたちにしっかりと伝えていきたい部分だと思っています(小学校教員時代は、尾羽廃寺で授業を組みました)。

saitobaru 西都原古墳群

 久しぶりに東大で行われている、臨床育児保育研究会(汐見稔幸先生主宰/木村も会員)の環境部会に出席しました。部屋にはいると、ご無沙汰していたせいもあってか、とっても懐かしく、そして嬉しく感じました。
 さて、東間掬子先生(元公立保育園長、現ハッピーパーツ代表)、今日は何を語るのだろう、と思うと、先生の子ども時代の経験(原体験)についてでした。いくつかのポイントがあったのですが、ここでは、特に印象に残った3つに絞って書いてみたいと思います。


(1)うらやましい位のご近所環境
 最近、書店では中学生以上を対象にした、職業紹介みたいな本が売られています。しかし、悲しいかな、頭ではなかなか理解できないのが実際の職業(かと言って、本の存在を否定しているわけではありませんで、今の時代、そういう本は必要なんです…)。東間先生のご幼少時代は、戦前だったこともあり、地域にいろいろな仕事場があり、生活に必要なものがどうつくられているか、目の前で見ることができました。仕事を実際にじっくりと見ることには、いくつかのよさがあります。一つは、実生活に役立つということ。東間先生は、風呂の桶を壊してしまい途方に暮れていたとき、桶屋が組み立てていた時のことを思い出して、何とか直し、事なきを得た経験を紹介して下さいました。壊したときばかりでなく、もちろん、いろいろ役に立つことばかりだとおもいます。
 二つ目は、将来、自分が何の職業に就こうか考えたときに参考になるということ。具体的にその職業について知っていることは、当然、職業選択の際の生きた参考資料となります。そして、三つ目は、遊びに役立つということ。例えば、ごっこ遊びでは、多種多様な職種が登場するでしょうし、またとても具体的でリアルなごっこ遊びになったと思います。遊びの深まりにおいても、容易だったかもしれません。
 職業と住宅が近いということは、様々なメリットがありますが、子どもにとっても、相当のメリットがあることがわかります。しかし、現代の街においては、小売店が減り、町工場が消え、何かのっぺらぼうな感じがしてなりません。


(2)地域集団が健在だった
 掬子ちゃん(東間先生のお名前)の住む近くには、異年齢集団が健在で、縦割りでいつも遊んでいたそうです。6年生の「いよちゃん」 は、いつも遊びを仕切っていたそうですが、思い出せば、私の子ども時代も、仕切り屋まではいかないにしても、年の離れた先輩がいて、いろいろな遊びを教えてくれました。キャッチボールができるようになったのは、4歳年上の「たかちゃん」がいたからでした(基地遊びのこつも教えてくれた)。しかし、東間先生と同じで、地域の遊びの先輩は、なぜか、中学校に上がると姿を消すのでした。そして、代替わりしていきます。戦前も戦後も同じなんだなぁと感じました。子どもたち社会の、自然発生的な縦型社会は、上手に育ちの連鎖を生み出すようです。しかし、無理矢理つくった“縦社会”は、どうもうまくいかないようです。学校や保育の現場では、疑似縦型社会作りにあまり走らない方が得策だと思います。
 園庭や公園、川の土手などで、自然に混じり合っているときの方が、お互いの実りは多いように感じます。小さい子どもは、年上の“先輩”に憧れますし、先輩たちも、案外上手に年少者とかかわっています。

 幼児・児童期にとって、地域はやっぱり大切ですよね。


(3)幼少時の記憶と影響
 東間先生も2歳後半の記憶を憶えていらっしゃいましたが、私も実は同じ時期のほぼ同じ場面の記憶をもっています。それは兄弟(姉弟)の誕生時のことです。かなり細かい記憶があり、やはり当時の自分にとってセンセーショナルな出来事だったから憶えているのかなぁ、と感じました。誕生を喜んでのことか、はたまた、お母さんを取られる!という危機感からか…。どうなんでしょう?
 記憶というのは、よいものより、悪い?ものの方がよく憶えているものなのでしょうか?親や先生の“えこひいき”場面は特に鮮明に憶えています。東間先生も同じみたいです。私は、小学校2年生の担任が、掃除の際、“長ぼうき”を使わせてくれなかったことが、とっても悔しい思い出として残っています(無理矢理生トマトを口に押し込まれたことも嫌でしたし、九九がなかなか覚えられないからといって、まるで“五人組”制度のように班の連帯責任にさせて、圧力を子ども同士かけさせながらインプリントさせていく方法も嫌でしたが…)。
 大人の何気ない言動についても、子どもたちはその意味が何であるか分析しています。自分の記憶を辿っても、やはりやっていましたし、教員時代、自分が担任をしていた学級の子どもたちも少なからずしていたと思います(ひしひしと感じていました)。


 久しぶりの臨床育児保育研究会・環境部会。東間先生や、参加されたみなさんの会話で、あれやこれやと考えることができ、楽しかったです。
 さて、来月は、木村がしゃべるということになりました…。ご指名にとっても感謝しつつも、一時間半で足りるかどうか…。その日ばかりは、終了後も延長戦を希望しようかな、と思ったり…。いやあ、今日は東京まで出てきた甲斐がありました。みなさんに感謝!なお、6月初旬に、久しぶりにトモエ幼稚園へ行って来ます!

環境部会5月

環境部会での様子(東京大学教育学部にて 2005.5.17)