Carpe Diem 〜今を生きる〜  -3ページ目
人の価値観によって変わるのが「正しさ」とか「正義」。

それは絶対的に間違いのないものとして存在してるのが「真理」。

宗教でいえば、キリストやブッダは「真理」を悟り、それを教典にして伝えようとしたわけだけれど、その「真理」のズレが、対立を生んでいるのは事実。

ここで気づかなきゃいけないのは、「真理」がズレていたのではなく、伝える手段または、選んだ手段がズレていたということ。

正しさは、自分で情報を集め、切り捨てることを伴ったうえで選択し、築き上げては、崩して、また築き上げていく中でできて来る。

だから、違っていてもよいもの。違って当たり前。だから、みんな違って、みんないい。

知る手段や、選ぶ手段が人によって異なることを考慮したうえで、伝え手は、伝えることに執着せず、伝わったのかどうかを問題にしなきゃ、結局間違いを伝えていることになる。

これは非常に怖い。

「真理」の「正しさ」を証明しようとする時点で、間違って伝わるんだ。

だから、もっと学びたい。






iPhoneからの投稿
人の行動は、他人にどう影響を及ぼすのか。コミュニケーションの実験、メラビアンの法則。

言語情報は7%、聴覚情報は38%、視覚情報は55%。

つまり、非言語コミュニケーションのほうが他人には伝わるよう。

ただやっぱり言葉を大事にしたいね。

言葉の語彙を増やしたり、誰かにわかりやすく伝えようとしたり、あえて、手紙を書いたり、そういったことが内面の自分を高めて、非言語コミュニケーションの質を高めることにもつながるんじゃないか。

俺はどちらかというと、群れたくないし、仲良しごっこは嫌いだし、自分を偽ってまで相手に合わせたりはしたくない。

けども。

群れをなして何かを達成したいし、友達とはクリエイティブにいろんなことを一緒に経験したいし楽しみたいし、自分を偽らなくてもいい人と出会って何かしら影響を受けたい。

こんな本音の言葉は、伝わるんだろうか。

自分をより具体的にイメージしてくださる相手によりますね。

法則よりも、信じるべきものはあります。そんな気がします。

とらわれず、感じていきたい今日この頃。
photo:01









iPhoneからの投稿
政治家は政治家であって、一個人として見られることはほとんどないように思われる。

一時期国は騙していたとか、早い対策をしてくれといった憤りや限りなく不可能に近い願いを抱いていたのは、まぎれもない事実。

それについては、自分の無力さを認めることから逃げたいという適応機制が働いたからだと感じる。

日本には、「国民主権」を謳った憲法がある。
あくまで政治家は国民の声の代弁者であって、それは俺の声でもあることになる。

ところが、代弁者としての仕事は果たされる事はない。政治家の批判ではなく、誰にも当てはまるだろう俺の見解。

声は一個人の主観的判断の、あるいは直感的な感情によって左右されるために、意見の吸い上げ、統合、調整をしたところで、最終的な声はまた、主観的判断と直感的感情によって支配される。
紙面に書かれたものを読んだところで、心には響かないしね。

そこで、政治家に必要なのは、ロジャーズの示したカウンセリングマインドに類似した態度なんじゃないかとふと考える。
①無条件の肯定的関心
②共感的理解
③自己一致

傾聴によるあるがままの受容、国民の発言内容を論理的に分析せずに感情や情緒の表れとして共感的に理解、そして、国民の感じていることと政治家の発言内容が一致していること。

俺の今の本音は、専門的な話はわかりませんということ。責任をもって仕事をそれぞれにがんばっているなかで失敗も失言もときにはあるということ。
「長い時間がかかる」と「一刻も早い解決」を混同しないで、被災地の方々に正確な言葉を選んで、真実をお願いします。

政治家も人間です。
みんな、人間です。


iPhoneからの投稿