修学の旅の始まり | 元気が出る言葉の贈り物

元気が出る言葉の贈り物

傷ついたら 大切なことに気づこう

気づくことができたら これからを築いていこう

いつでも前向きに  一歩 一歩

 

 

記録)

 

みせているものがあるように
みせていないものがあり

みえるものには
みえないものがある

みたいものがあるように
みたくないものがあり

みえているものがあるのに
みえていないものがある

 

 

 

光と闇の闘いがあったこの当時から

ちょうど6年を迎える

 

 

 

 

 

全身全霊で命を賭けて向き合い闘った当時

現実では会社の責任者として

全うしなければならない日々と

霊的なことでの個人的対応が日々あり

平穏に1日が終わることはほぼなく

眠る時間もままならなかった

 

最期は自分との闘い

精神世界での闘いともいえた当時であった

 

退魔師や

魔物を退治する側に足を踏み入れた者は

魔物の攻撃を一斉に受けることがある

マイナス側にとっては邪魔な存在になるからだ

 

徒党を組み周囲から精神的にも

あらゆる手を使い 卑怯な手段で

追い込んでいこうとするやり方を

マイナスの存在は好む

 

私個人だけを攻撃すればよいものを

魔族類は一番苦しめるために

身近な家族をまず標的にする

卑怯な手を取るのが魔物たちのやり方

そして友人や知人を使い攻撃させたりもするし

人質のようにして羽交い絞めにし

傷口に塩を塗りこむようなことをするのだ

 

魔は自分の手は決して汚さないという意識が高い

なので精神的に弱い人や欲深い人は

行いを代行させるために

狙われることが多い 

道具にされるのだ

 

退魔師になれば

家族や関わる友人や人々を護りながら

闘うことをしなければならない

 

その為にも強靭な精神力が必要だし

そのことで身についていくものなのだとも思う

また独身や子をもたない人が多いのも

深い意味があるのは理解できる

 

生活のため普通に仕事をしながらも

守るべきことは私にも当然にあった

 

そして守るために

どれだけ伝えられることを伝えても

闇を好み 闇を望み 

闇を恐れるあまりに

闇にとどまり 

闇を受け入れる人は

救えないということも学んだ

また救いたいと思う己の想いこそもいかに

愚かで傲慢であることかをも学んだ

 

このアメブロにきて

魔物を使役し支配していた霊能者と出逢い

そこからまたご縁ができた方々と出逢い

因と縁の関わりでの学びが長くあった当時

 

魔を魅了し魔に魅了されると人はどうなるか

私の人生で最大の学びになったともいえる

 

「罪を憎んで 人を憎まず」

昔からある中国のことわざ

 

何らかの被害者になった場合は

理解するにも受け入れるにも

人の心の感情としては

難しい学びともいえるのは知っている

私も幼児期に虐待され母に捨てられた経験を持つ

憎む力を生きる力に変えていた幼少時期もあった

そして年月をかけて許し自分のために受け入れた

 

私にとって今生 起きあがってくることは

すべて意味のある学び

人に生まれた以上 皆同じと言っても過言ではない

 

理想と現実の狭間で

何度もうちのめされることはある

綺麗ごとよりも 汚いことが

生きにくいこの世の中で

現実社会には多いかもしれない

 

だからこそ

人は家族や大切な友人や周りの人を

自分の近い周りの人だけでも

必死に守ろうとするし

自分の身を清く正しくありたいと願う

 

誠実に生きたい

誠実でありたい 

誠実であってほしい

そう願い祈り続ける

 

そしてその輪を家族でつくり

関係の輪を広げていくことで

信頼関係を生みだし育て

共に学びながら縁を繋げていくことは

この世で 共に幸せに生きていくことに

繋がっているといえるだろう

 

そこに人は感謝という有難い尊さや

慈しみを知るからだ

大切なことは

自分の身近にいつもすぐ傍にあるということ

 

 

なので必死に守ってきている人やコトを

壊された時の人の感情に

「罪を憎んで 人を憎まず」

を乗り越えるハードルは高いとも言える

 

それでも乗り越えようとするのも

人がこれからを築くために必要な

努力という精進の行いだと思う

 

 

当時の私は現れた魔に

支配されることを拒んだ

私が道具として支配されてしまえば

私の家族や友人と関わる人も

その支配下になってしまうからだ

 

私を自由にすることが

繋がる人々の自由につながる

長い間

人の肉体を変えても関わる魔は同じ

 

この魔に繋がった人たちとともに

その支配から自由になること

だからどんな攻撃を受けても徹底して

私は服従しなかった

 

親族内で巫女や霊媒体質をもつ者に

当時姿を霊夢で見せてきた

一気に同じ日に家族を襲ったのだ

 

ひとりには カラスの姿で襲い掛かり

 

私の子には 声と姿で伝えた

「お前の母が愛したのはこの私だ」

背後から肩におかれた手は

黒く長く伸びた大きな爪

そして話す口元が真横に見えたといい

それは黒い大きなくちばしだった

 

霊夢と現実の狭間で子は震えながら私に伝えた

それを聞いた私はすぐ服をめくり子の肩をみた

肩にはつかまれた跡が残っていた

 

親族にその姿を同日にみせたのは満月の前日

私は怒りの感情をおさえられなかった

そしてその行いが何のためかもわかっていた

 

 

翌日の満月の日

夜明け前となる朝4時に

そのモノたちは私の前に姿を現した

身長は2メートル弱はあるだろう 

天井に近い背丈

顔だけは見せなかったが

大きな黒い羽根

予期していた私はすぐに起き上がり

枕元に置いている如来剣を手に取り

真言を唱え闘うためにかまえた

すぐにベランダ側から空へ飛び立ったモノたち

薄赤く染まりだした空の真上には薄赤い満月

たくさんのカラスの鳴き声と

飛び去っていく距離感は伝わってくるが

姿だけがまったく見えない

夜明け前の 逢魔時のことだった

日が昇る直前である

私は去っていくモノたちへ

「お前など愛してはおらぬ」

そう叫び伝えた

 

闇夜のカラス

黄泉の国のカラスたちである

 

このモノたちが現れたのは

ある神社の夜の祭りに行った時

 

末社に祀られていた

熊野神社を参拝した際に

背後に降り立ったモノたちである

振り返らず知らないふりをして

帰宅したがその間 

ずっと頭上高くを飛んでついてきた

その時感じた数は5~6体だったろうか

 

私が神社の夜の姿は違うと書くのは

その体験もあるからである

そしてこの時 

熊野の異変のような違和感を感じたのだった

熊野に行かなければならないと思った瞬間である

 

そのモノたちが現れたのは

私が淡路島での行いを決心してからのこと

 

 

明石海峡大橋を渡る際

風をあおり蛇行させ 

次々と邪魔をしてきたのが

この黄泉の国のカラスたちであった

 

魔と通じるものは

身勝手に徒党を組むし 仲間割れもする

 

退魔師としては未熟だった当時の私が

この闘いの中でボロボロになることは

初めからわかっていたことだった

それでも私には護り貫いてみせる信念だけがあり

自分の内なる神を信じ覚悟だけを決め

やれることやるべきことに必死だった

 

あの時 淡路島で

天啓があり

天を見よと伝えられ次々と現れた四神

 

朱雀と白虎が同時に現れ

龍と麒麟が同時に現れた

私の四神には亀はいないと当時書かせて頂いた

 

 

 

 

 

又人は誰もが神の子とも書いてきた

 

誰もが自分にご縁のある神々様がいる

産土の神様も一生を守護してくださる神様のお一人だ

 

また人は人であり 神の子であっても

神にはなってはいけないとも書いてきた

自分を神的存在にした時

邪(蛇)がささやき近づいてくる

試される選択を間違えた時

人は運命が大きく変わってしまう

 

釈迦の最期にも

悪魔は囁いてきているのだ

 

その邪(蛇)にのみこまれてしまうかは

本人次第

選択権は自分にあるのだから 

自由意志の元に 自己責任の元に 

与えられている自由であり

大きな試験でもあるかのようにも感じる

 

 

天啓でみせられた四神に亀がいなかったことで

亀は人間自身を表しているのではないか

そう私は感じてきた

 

昔から伝えられている

霊獣の四神に出てくる亀は

人への忠告を意味しているのかもしれない

 

背負う甲羅をもつのは亀だけ

そしてその背に巻き付く蛇(邪)が

アダムとイブをそそのかした蛇

その蛇(邪)にのみこまれてはいけない

亀を北(陰)の位置にしているのも

見えない世界のメッセージのように感じる

 

重い甲羅を背負い

苦しい道が多くとも

常に襲いかかる邪(蛇)に決してのみこまれず

己の中に神を信じおき闘うこと

 

そう私には伝わるのだ

 

昔から

感謝や祈りは

手のひらを合わせた合掌で現され

罪人は後ろで手の甲を合わせる姿で現される

 

背負う甲羅は

人にある六根で根幹とされる

眼・耳・鼻・舌・身・意(心)

 

私欲や煩悩 迷いを起こす

眼(視覚)

耳(聴覚)

鼻(嗅覚)

舌(味覚)

身(触覚)

意(意識)

 

この

六根を常に清らかにすること

それは仏教では

般若心経や法華経でも説かれている

 

六根清浄(ろっこんしょうじょう)

 

この言葉は ある言葉としてなら

ほとんどの日本の人は誰もが口にしている

 

「どっこいしょ」

 

私も先日運動会に招待され

子ども達が演じるヨサコイのソーラン節を観てきた

陽の光の中 「どっこいしょ どっこいしょ」

と響き渡る大勢の言霊に

元気の力をたくさん頂けた

 

昔から行者たちの修行は

山の自然の中で行われ

自然界(自然神)と一体になり心身を清め

「六根清浄 六根清浄」と繰り返し

山を登りながら口にしていた

それが

「どっこいしょ どっこいしょ」と

聞こえたといわれる

 

「どっこいしょ」という言葉は

六根清浄が語源なのである

 


幼少期からご縁の深い四天王寺

四天王が祀られているこのお寺の池には

亀しかいない

そして供養で経木流しをされるのも亀井戸

 

人々の魂を供養し水で清め流す

亀の井戸

 

 

鶴は千年

亀は万年

万年と生き続ける悪魔は

常に人々へ 邪(蛇)をささやく

 

六根が我欲の貪りや執着にまみれていては

正しい道(八正道)へ往(ゆ)くことはできない

 

六根は常に清らかであるように

 

人を罪人にまでしてしまう

貪りや執着の想い

 

 

六根の甲羅を背負い

その身を清く守りながらも

邪悪は背負わず おろすこと

 

 

「どっこいしょ」の言葉も又

人は重い荷物を背負い 降ろす際に

口にすることが多い言葉だ

 

 

亀が背負う甲羅は

人にある六根で根幹とされる

眼・耳・鼻・舌・身・意(心)

 

 

それはこの近畿地方(※禁忌地法)

魂の闘いの歌としても

メッセージで伝えられている

 

「六甲おろし」

 

それは阪神タイガースの闘魂歌

 

阪神は大阪と神戸を中心とした地域をいう

 

その漢字(神字)にも

 

大阪の神であり 

霊獣の西を守護する虎がいるのだ

 

この日(陽)の元

日本に伝えられている漢字は神字

 

この次元には 

魔の囁く言葉も散りばめられているように

神々のあらゆる言葉も散りばめられている

私はそう感じる

 

 

 

みせているものがあるように
みせていないものがあり

みえるものには
みえないものがある

みたいものがあるように
みたくないものがあり

みえているものがあるのに
みえていないものがある

 

 

次々と伝えられるメッセージを

私は繋げ 修学するため

当時この場を離れることにした

 

 

 

 

 

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※法の意味は戒律に真理

禁忌は現代ではタブーを意味しているが
古代(日本書紀)での意味は斎と忌
(斎と忌より)
古典的には異常な神聖に対する消極的な忌避の態度や

習俗ばかりでなく積極的な交渉や謹慎のそれをも含む。

原始古代の神聖観念には
崇高,清浄,偉大,強力など畏敬すべき神聖のほかに
危険,邪悪,汚穢(おわい)など忌避すべき不浄な

神聖も含まれており
基本的には異常な神秘として日常から隔離され
俗的扱いを禁止される意味をもつ


 

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これは私の実体験をそのまま記録として

書き残しています。

ありのままですが書ける範囲のみ記録していきます。

 

(つづく)